北野映画は大衆受けに堕するべきではない!『あの夏、いちばん静かな海』(1991)と『Dolls』(2002)の圧倒的な「美の暴力」
北野武が6年ぶりに新作『首』を出すというので、個人的に10年来の北野武熱なるものが再燃しており、とても楽しみである。
彼は個人的にだが、日本映画の中で黒澤・小津・溝口らかつての巨匠たちに匹敵する図抜けた才能とセンスに溢れたアーティストであると思う。
映画界において真に得難い天才であり、個人的には今まで見てきた映画監督のベスト5に入る、百年に一人の逸材だ。
シニカルな笑みの奥に潜む哀しさと嬉しさ、いつ暴力を振るってくるかも分からない内面に孕んだ狂気、そして絶妙な色気溢れる嗄れ声。
いずれもが唯一無二のものであり、北野武という俳優・監督はただ立っているだけでも画面を超えて常に何かをこちらに語りかけてくる。
テレビだとあんなに猥雑で下品なバカをやる芸人なのに、それが映画だと途端に寡黙になり有無を言わさぬ圧倒的才能とセンスで観客を平伏させるのだ。
私はお笑い芸人としての「ビートたけし」は大嫌いだし興味もないが、映画監督・俳優・アーティストとしての「北野武」は狂おしい程大好きである。
正に彼自身が提唱する「振り子理論」のようにテレビと映画で全く違う姿を見せ観客を引きつけてやまないが、今回から不定期に北野映画の感想・批評をしていこう。
とはいえ、既に黒澤明・淀川長治・蓮實重彦ら映画界の著名人・巨匠によって批評され尽くしている北野映画を語るのは何とも恐れ多い。
それは決して先人達に語られ尽くしている場所に自分が図々しく入り込むからではなく、北野映画の画面が持つ圧倒的な暴力に打ちのめされるからである。
北野武監督の作品はそれが任侠であれコメディであれ、どんな作品も「画面」の持つ迫力が半端ではなく、良し悪しはあるが固唾を吞んでしまう。
そんな迫力のある彼の画面を言葉にするのは難しいが、今回はそんな彼の画面から私が感じたものを言葉にしていくことにする。
今回はその第1回目として『あの夏、いちばん静かな海』(1991)と『Dolls』(2002)の2本をまとめて扱う。
なぜこの2本なのかというと、この2作は北野映画に限らずあらゆる映画作品の中でも圧倒的な「美の暴力」が詰まっているからだ。
単純に「美しい」のみならず、その美しさが見る者の感性を揺さぶりボコボコに殴り、ラストに銃で仕留めてくるのである。
北野映画はどれも何かしら素晴らしいが、その中でも「芸術」を感じさせるこの2本について比較も交えながら語ろう。
『あの夏、いちばん静かな海』(1991)と『Dolls』(2002)の評価
まずこの2作の評価点は以下の通り。
『あの夏、いちばん静かな海』(1991)……A(名作)、100点中85点
『Dolls』(2002)……S(傑作)、100点中95点
どちらも素晴らしい作品であったが、差がついたのはやはり「画面の美しさ」であり、徹底的なファンタジーの色彩である『Dolls』(2002)の方が好みである。
「あの夏」の方も「北野ブルー」の演出がとてもよく出ていて綺麗であったが、やはり「日常の中でも見られる画面」なのが微妙に刺さり切らなかった。
映画はどこまで行こうと「娯楽」「活劇」なのだから、どうせならとことん派手に振り切ってバカバカしいほどのケレンをやってくれる方が好きである。
『Dolls』(2002)はそこが現実的な題材を扱いつつも、とことんまで日常から逸脱した非日常として描いてくれるので、思い切りがよくて大好きだ。
この2作に関しては「見方」ではなく「見え方」が評価のカギであり、「どこをどう見るか?」ではなく「どこがどう見えるか?」が問題だろう。
普通の映画であればドラマや台詞回し、俳優の芝居に重きを置くから受け手の間で解釈が分かれるが、この2作はそのような解釈違いが起きることはない。
むしろそのようなわざとらしいドラマを一切捻らず、台詞回しも極力抑えて平板にし、徹底的に「省く」ことで抽象度を高めることで画面に純粋になれる。
その分「映画」としてこれ以上ないほどの完成度に仕上がっているのだが、個人的には「あの夏」の究極版が「Dolls」という印象だ。
北野監督は「Dolls」を「最も暴力的な映画」と語っていたが、確かに画面それ自体がここまで暴力的なものは他にないといえるだろう。
だから、この2作は登場人物の生死や「戦い」という意味での暴力を楽しむのではなく、できた一枚の絵をじっくり鑑賞する感覚に近い。
例えるなら「北野武の個展」を映画でやっている訳であるが、私にとってこの2作がどのように見えたかを言語化してみよう。
「歩く」こと
まずこの2作で特に共通しているのは「歩く」映画だということであり、茂と貴子も佐和子と松本もとにかく「歩く」のである。
北野映画で「歩く」といえば『その男、凶暴につき』(1989)でよく指摘されることだが、この2作もとにかく主人公がひたすら「歩く」映画だ。
それぞれ「真夏のサーフィン」と「繋がり乞食の放浪」で題材は違うが、ひたすら「歩く」ということが共通項として挙げられるだろう。
何に向かって歩いているかというと後述する「死に向かって歩く」なのだが、その歩き方や歩く順番といった表現方法が違う。
「あの夏」の茂と貴子はサーフボードを持って歩いたり、横並びに歩いたり向かい合うように歩いたりといったことで変化を表している。
聾唖者だからこそ言葉で分かり合えずジェスチャーや表情で会話する訳だが、それ以上に「歩く」ことがお互いの距離感や心理として表現されているだろう。
わかりやすいのは「あの夏」の中盤、茂にみかん女が出てきて「みかん剥いて」というところで貴子が遠くから近づきかけ、それを見て逃げてしまうシーンだ。
貴子は茂が浮気したと誤解し家に篭ってしまうのだが、茂は彼女と縒(よ)りを戻したいからと最終的には二階の窓ガラスを壊すという行為に出る。
その後言葉もなく和解するのだが、ここで茂が貴子に向かって歩き、その後並んで歩くことで「関係が修復した」ことが端的に示されているのだ。
一方で「Dolls」の佐和子と松本は途中から赤い紐にお互いの体を括り付けて歩くのだが、茂と貴子とは異なり最初から最後まで同じ方向に歩く。
時々お互いを見遣ることもあるが、距離感が付いたり離れたりするのではなく、佐和子と松本は少し開けた距離感で一緒に歩くことで関係性を表現する。
「その男」ではぶっきらな早歩きによって「死」に向かっているものとして表現されているが、「あの夏」「Dolls」で「歩く」表現の幅が広がっているのだ。
他にもサッカー少年とその友人、また山口春奈と温井も「歩く」のだが、その関係性が恋人ではなく「友人」だったり「元アイドルとそのファン」だったりとある。
どんなコンビでも「歩く」ことは徹底しており、特にこの2作の印象に残る表現であり、その歩き方や写し方もアップだったり引きだったりと豊富な見せ方だ。
ただ男女が歩くだけで延々とカメラを回し、それを「映画」として成立させたという意味でとても面白い「身体の演技」になっているのだなあと思う。
「着替える」こと
『Dolls』(2002)に特に見受けられる傾向だが、「着替える」ことも北野映画の特徴であり、色合いもそうだが質感も上手いこと画面に収まっている。
特に「Dolls」は山本耀司の衣装を使っているためか、とにかくロングショットで撮られる佐和子と松本の背中が美しく、思わず見惚れてしまう。
山本耀司のたっぷりと空間を持たせるように作られたロングの衣装は「見返り美人」の美学がそこにあるのだが、特に赤と黒のショットが対比として面白い。
耀司の黒は本物の「黒」であり、世界中にあるあらゆる「黒」の中でも本当に「黒」だと納得させてしまうものがあり、それが心象風景ともうまく馴染んでいる。
特に「Dolls」で一番ハッとしたのは良子と春奈が物語後半で着ている黒と赤のロングの衣装であり、この美しさにはふと心揺さぶられてしまった。
物語的な役割として見るならば、ここで2人がそれぞれ黒を着ているのはそれぞれ親分と温井が死んだ後なので「喪服」「死」といった「不吉さ」の象徴であろう。
だが、私がここで感動し驚いたのはそのような物語としての役割に感動したからではなく、赤と黒を着た松原智恵子と深田恭子の美しさにある。
特に深田恭子はあらゆる映画・ドラマに引っ張りだこの大女優だが、劇中でのキャピキャピアイドルからとんでもなく憂いを帯びた女性へ変質させたのは見事だ。
また、「人形」として描かれてしょっちゅう衣装が変わる西島秀俊と菅野美穂も美しく、山本耀司の衣装を着て様になる役者たちだったと思う。
そもそも北野映画であんなに様になる美男美女の俳優・女優を使うこと自体が珍しいのだが、それを「人形」にする形で美しさを出したことで「色気」が出ている。
「あの夏」の真木蔵人と大島弘子はその点存在感のある俳優・女優ではなく幾分地味な存在なのだが、この2人はその地味さ故に一般的な私服が似合う。
まあ真木蔵人に関しては肉体美があるので黄色のサーフィンの衣装も様になるのだが、大島弘子はとにかく徹底して地味であり、着ている服もあまり目立たない。
北野映画の特徴として「北野ブルー」があり、空と海の青さを殊更指摘されがちだが、今回の2作を見ると赤・黒・黄といった他の色も印象に残る。
特に山本耀司の赤と黒をここまで映画の芸術として成立させ一枚の絵として完成させた例もなかなかなく、コスチュームプレイが実に特徴的だ。
衣装のセンスがある映画監督というと小津安二郎やマーティン・スコセッシなどが指摘されがちだが、私は北野監督もまた衣装に拘りがある作家だと思う。
私服・スーツ・ハイブランドとあらゆるジャンルの衣装をここまでバラエティに富んだ使い方をできるという意味でも私は高く評価している。
「絆」の儚さ
この2作に限らないが、北野武監督は日本人が美徳として用いる「絆」がどれだけ儚いものかということを作品を通して見せつけ、視聴者を殴ってくる。
蓮實重彦とのインタビューでも語っているが、北野監督が恋愛を題材にしない理由の1つが今の社会に男女の関係を激変させる大きな出来事がないからだと語っていた。
いわゆる宇野常寛が惹句として使っている「大きな物語」が冷戦後の日本に不在だということだが、北野映画ではわざとらしい事件がなくても男女の恋など簡単に崩される。
「あの夏」の茂と貴子は浮気の誤解によって距離ができたわけだし、くっついたと思ったら茂はサーフィンに夢中で貴子がそっちのけになってしまう。
だが、これには大きな理由があり、男女がずっと一緒にいることは同時にお互いを縛り付ける窮屈なものになりかねないことを「Dolls」の佐和子と松本で示しているのだ。
佐和子と松本はお互いに婚約までした関係なのに親のエゴに巻き込まれて望まぬ政略結婚を強いられてしまい、それが原因で佐和子は狂って白痴化してしまう。
松本は彼女を狂わせた罪悪感に囚われ政略結婚を蹴って佐和子と共に駆け落ちし放浪すること選ぶのだが、これが「あなたに、ここに、いてほしい。」の真意であろう。
2人を最後まで繋ぎ止める赤い紐はいうまでもなく「運命の赤い糸」「絆」の象徴なのだが、それが決して肯定的に使われるのではなく否定的に扱われている。
3.11(東日本大震災)以降やたらと「絆」という言葉が流行ったが、本来の意味は「馬・犬・たか等をつなぎとめる綱」という拘束力の強いものである。
決してプラスの意味では使われていなかったわけであり、北野武は男女に限らず「絆」なんてものが如何に危険なファシズムであるかを佐和子と松本を用いて恋愛映画への反証として突き付けた。
一緒に居たければ共に居ればいい、ただしそれはお互いを縛り付けてしまい、下手すれば人生そのものが破滅しかねない危険性を孕んでいるのだと無言の暴力で殴ってくる。
松本が佐和子のことなんか放置して病院に任せて政略結婚に乗って過ごせばよかったのに、それを捨ててまで佐和子を選んでしまったから悲惨な最期を迎えた。
「あの夏」の茂と貴子もそうであり、最終的に茂は曇り空の中でわざわざサーフィンへ行ってしまい、波に呑まれて死んでしまうという末路を辿っている。
そしてそんな彼の跡を追うようにして貴子は入賞した時に移った写真をボードに貼り付け海へ向かって流す、下手すれば彼女も死んだかもしれないことが示唆されていた。
北野映画全体にいえることだが、恋人同士の関係がずっと破滅せずに続いた試しなどありゃしない、そんなものを彼は元々信じてなどいないのである。
フライデー襲撃事件の時も、そしてバイク事故の時も彼はずっと孤独さを抱え大衆に叩かれながら生きてきたのだ、如何に人間の「繋がり」「絆」が上辺の薄っぺらいものかを知っているのだろう。
「逸脱」と「死」
3つ目と繋がることだが、北野映画で示されている共通の法則として「社会から逸脱したものは何かしらで復帰しない限り死ぬ」ということが挙げられる。
「あの夏」の茂はゴミ収集の仕事をサボってサーフィンに現を抜かすという「逸脱」をした挙句入賞というささやかな栄光を手にしながら最期はそのサーフィンで死んだ。
「Dolls」の佐和子と松本の場合は更に手が込んでいて、まず佐和子が松本の喪失を経験したことで「精神崩壊」という「人格の死」を最初に経験する。
次に松本が佐和子といることを選び「社会的な死」という「逸脱」を選び当てもなく放浪した結果、最期は文字通り雪だらけの道を滑り落ちて木に引っかかっての「死」を遂げた。
最高傑作「ソナチネ」でもそうなのだが、北野映画では「死」というものが良くも悪くも到着地点として用意されており、そのために社会から逸脱するという行動を取らせる。
そして社会から脱線した者が子供じみた遊びに興じた結果、「大人になろうとしなかったもの」として一時的にうまく行ったように錯覚させて最期は奈落の底に突き落とす。
北野映画における「死」が画面で印象付けられるのは「死」そのものが怖いからではなく、「社会からの逸脱」を描くことでいつ死んでもおかしくない状況を作るためだ。
任侠ものであろうがお笑いであろうが時代劇だろうが、北野映画の面白くもあり邪悪なところは常に「死」というものが「逸脱」とセットで隣り合わせにあるところである。
それこそ深田恭子演じる春奈と温井もそうであり、春奈は事故で顔面を怪我したことでアイドルとしてのキャリアが丸ごとなくなり、温井も目を失ってファンから逸脱した。
2人は一緒に歩くことで心を一時的に通わせるが、最終的に温井が事故で死に、更に親分と良子も老いらくの恋によってヤクザから「逸脱」した挙句に死んでいる。
一度社会のレールからはみ出たものはどんな形であれ死ぬ以外にはないのだが、北野映画の死生観はバイク事故によって大きく変化したといえるだろう。
「あの夏」では自ら死へ向かっている迸る熱がフィルムにあったが、事故後の「Dolls」でその死を更に俯瞰して突き放すように描いている。
これは事故前の「ソナチネ」あたりまでの初期作品にはなかった視点であり、あのバイク事故で半身麻痺に陥ったのに生き延びたことが北野監督の倫理観に影響を与えたのであろう。
それが完全に開き直った結果が「アウトレイジ」や今度発表される新作の「首」なのかもしれないが、それはラブストーリーを描いた静かな2作でも非常によく描かれている。
自決しようとしても出来ない臆病さと同時にそんな自分すら俯瞰してしまう妙な傍観者ぶりとの混在があの画面の独特な味に繋がっているのだ。
それを任侠映画という「いつ死んでもおかしくない映画」ではなく青春ラブストーリーという「死ぬこと自体があり得ない映画」でも描ける感覚が凄い。
北野武監督は大衆受けに走らないで欲しい
今改めてこの2作を見た後で思うのは、いくら「世界の北野」と賞賛されても、決して大衆受けに走らないで欲しいというのが個人的な我儘である。
北野監督は自身でも述べるように「ハリウッドのようなパーツパーツに別れた総合芸は無理」と言っていたし、実際そうだと思う。
しかし『Brother』(2001)や『座頭市』(2003)で成功したからか、どうも「アウトレイジ」辺りから変な大衆性と論理的整合性を意識している気がする。
それは「わかりやすさ」という点では悪くないのだが、映画史の流れも踏まえてみると好ましいことではないし、北野映画にそんな行儀の良さなど求めていない。
大衆受けなんてディズニーやハリウッド、日本で言えば新海誠や庵野秀明ら商業作家に任せておけばいい、大衆人気は彼らが請け負ってくれるのだから。
北野監督には是非ともテレビ芸人上がりで唯一カンヌに行けた名監督として、今後もその天才性を世界に見せつけて好き放題に映画を撮って欲しい。
少なくとも『えんとつ町のプペル』(2020)の西野亮廣なんか足下にも呼ばない程の作家性・才能・センスの塊なのであるから。
そんなことを感じさせる圧倒的な「美の暴力」がこの2作ではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?