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映画『キッズ・リターン』(1996)感想〜映像美・構成の美・運動の美の三拍子が揃った青春映画の傑作〜

北野武の映画『キッズ・リターン』を久々に見直したので感想・批評をば。

評価:S(傑作)100点中95点

本作は『ソナチネ』(1994)の後に交通事故に遭った北野武監督の復帰後初の監督作品なのだが、良くも悪くも北野映画の転換点となった作品だ。
東京国際映画祭の『映画監督北野武 国際シンポジウム&レトロスペクティヴ』でも語っていたが、ある種本作は北野武自身の学生時代の青春を切り取って擬似的に再現した私小説といえる。
例えばわかりやすい例だと本作の主演である金子賢と安藤政信が屋上で箒人形を釣って下ろすところも実際に監督自身が高校時代にやったことらしく、しかも実話では箒人形ではなく実際の人間を吊るして停学になっとか。
また、本作では漫才コンビを目指す南極五十五号がいるが、これもメタ的にいえば「ツービート」としてお笑いの世界で大成していくかつての北野監督のカリカチュアと言えなくもない。

金子賢と安藤政信は今でこそ役者として大出世したがこの当時はまだ無名の新人であり、既にある程度の暦がある役者を起用していた今までの映画と異なる点も注目したい。
青春映画で若い役者を中心にした作品というと『あの夏、いちばん静かな海』(1991)を思い出すが、あちらでは最終的に若い男女が死んだ(と思しき)ラストになっている。
しかし本作では最終的に若者2人は死ぬことなく元の木阿弥になっているのだが、お話としては取り立てて何か素晴らしいものがあるというわけでもないのに、最後まで見ると見事な傑作に仕上がっている。
死ぬ方から生きる方へ行ってようと思えた」という監督自身の死生観の変化も大きく影響しているが、本作はとにかく映像美・構成の美・運動の美の三拍子が見事に揃った傑作だ。

個人的に本作のなにがいいといって、「青春」を題材にしながらも決して「友情」「恋愛」というものを教条主義が如く押し付けがましいものにしていないことである。
「ボクシング」「ヤクザ」「漫才」「喫茶店の恋愛」など、東京の下町で育った監督自身の体験に基づいていながらも、決して安易な青春ドラマにしていない。
また、メインの見どころである安藤政信のボクシングに関しても『あしたのジョー』『レイジング・ブル』のような泥臭く血生臭い要素を極力排している。
画面の運動として確かなリズム感の良さや役者の身体能力も含めたアクションをよく出しているのだが、それすらあくまで日常の一環として淡々と描かれるのみだ。

一方でもう片方の金子賢の方もヤクザにスカウトされ徐々に出世していくのだが、そのヤクザにしても寺島進を中心に北野映画の定番のメンツで押さえつつ、バイオレンスは抑えめである。
そんな本作の魅力はもう各所ですっかり語り尽くされているとは思うのだが、今改めて令和の世に見ても古びない、それどころか衝撃を与えてくれる本作の魅力は果たしてなんだろうか?
それを今回の感想では映像美・構成の美・運動の美の3点を中心として語ってみたい。


遂に完成を迎える「北野ブルー」の映像美

まず、これはもう誰もが認め得る事実であろうが、私は「北野ブルー」の映像美が演出として1つの到達点に至ったのは間違いなく本作であると断言する。
事故以前の作品群ももちろん映像美はどれを取っても映像美として凄かったのだが、「ソナチネ」までの作品はそれが「実験作」という感じであり、圧倒的な美しさでありながらどこか未熟さもあった。
しかし、本作で見せられる青の映像演出はどこを取っても美しく、それでありながら「深み」「円熟味」というか、それまでにない「優しさ」「穏やかさ」が感じられる
「あの夏」ですら美しいながらもまだギラギラと尖った毒のような感覚が画面全体に張り付いていたのに、本作にはそのような尖が幾分柔らかくなり、見ている側が安心できるのだ。

特に個人的に見た瞬間に思わず涙を流しそうになったのがボクシングを始めようとするマサルとシンジが校庭を駆けるところを引きで撮ったろころの見事な映像美である。
ここで雲一つない見事な「青」の感覚は2人の若者の「青春」をわかりやすく伝える心象風景であるのみならず、どこか生命力に溢れていて力強く優しく感じられるのだ。
「あの夏」の真夏の燦々とした青も悪くはないが、そうではないごく普通の穏やかな「青」をここまで美しくカッコよく撮った日本映画を私は少なくとも本作以外に見たことない。
2人の若者が走るスピードが全体を通して決して速くもなく遅くもない等速の感覚をカメラが引いて写すことで、よりその映像美が際立って面白いように感じられる。

また、本作における「青」はマサルがボクシングの練習シーンで着用している青のジャージにも現れており、それがマサルが最初に着ている赤のジャージとも好対照をなしているのだ。
今見るとお笑いコンビのテツandトモの赤青ジャージの衣装はここから地味に着想を得たのではないかと思わず錯覚しそうになるが、シンジが着ている青の衣装もまた美しい。
そう、のちに「Dolls」(2002)でより顕著となるが、北野映画の何が素晴らしいといって「衣装」に色気(存在感)があることであり、ここもまた本作の傑作たる所以として押しておく。
その着こなし方も面白く、成人映画館に入るために学ランをまるで背広のようにして敢えて着崩すという発想も面白く、こんなコスチュームプレイもまた北野監督ならではのお笑いの感覚であろうか。

そしてヤクザの夜のシーンの怖さもまた演出されていて、単純に青みがかった映像だけではなく、夜のダークブルーの演出もまた素晴らしく、どのショットを切り抜いても無駄な画が一枚もない
喫茶店のシーンも非常におしゃれに撮られているし、漫才シーンのカメラワークも小津映画を彷彿させるローアングルで撮られていて、色合いの対比も含めて本当にどのシーンも素敵だ。
その映像の色合いの変化こそが正にマサルとシンジという2人の若者の青春がどんどん危なく過激な方向へ突っ走っていることの証として映し出され、まずこの映像美に感心してしまう。
それまでどこか他を寄せ付けない孤高さがあった北野映画が本作から少し柔らかくなり、危うさを孕みながらもどこか見ていて落ち着いた抒情的なものが本作のテイストとして打ち出されている。

冒頭とラストを同じカットの反復で見せる構成の美

2つ目に私が改めて見直して感心したのは小津安二郎の『東京物語』(1953)や押井守の『スカイ・クロラ』(2008)でも用いられていた冒頭とラストを同じカットの反復とズレで見せていることだ。
冒頭とラストを同じ構図の違ったカットで締めくくると作品全体を通して一貫性が出て引き締まった印象になるのだが、これもやはりそれまでの北野映画では用いられなかった見せ方である。
具体的に説明すると、まず冒頭で新聞配達をしているシンジとヤクザ稼業から足を洗ったマサルの再会が描かれるのだが、そこから突然2人の学生時代へ突入し、自転車のカットに入った。
まずは学校に向かうカット、校庭を自転車で2人乗りしている様を教室から眺める生徒のカットという順番で映し出されている。

そしてラストではそんな2人が現在に戻って、同じように学校に向かうカット、校庭を自転車で2人乗りする様を教室から眺める生徒のカットで締めくくっていた。

このように、同じカットを繰り返すことによって物語全体を1つの円環構造のように見せているのだが、実は細かいところで変化が示されていることにお気付きだろうか?
まず冒頭のシーンではマサルが赤でシンジが黒、乗り方も真正面で相対しながらグラグラとふらつきながら漕いでおり、どこか危なっかしさや怖さが感じられる
決して遅くも速くもないこの斬新な2人乗りは淀川長治も指摘していたように2人の「青春」「若さ」という感覚をこれ以上内までに劇的に醸し出していた。

それがそれぞれにボクサーとしての夢、そしてヤクザとしての夢を挫折し、偶然の再会から期せずして昔の関係性に逆戻りしたという格好になっている。
しかしラストの時には完全にシンジが自転車を漕ぎ、その後ろでマサルはまるで恋人か弟かのようにしてシンジの背中に甘える格好となったのだ。
そう、物語の冒頭ではどちらかといえばマサルの方が先輩風を吹かせて主導権を握っているように思われたのだが、ラストでは主導権がシンジに移行している。
ラストの台詞でも「俺たち終わっちゃったのかな?」「バカヤロー!まだ始まっちゃいねえよ」というのは一見マサルが主導権を握っているようだ。

だが、本当にそうならマサルが運転してもいいものをシンジにおんぶに抱っこしているのだから、マサルの方が奥底ではシンジに甘えているのである。
2人の関係性の変化が決定打となったのはボクシングの練習のシーンであり、ここでなんとシンジがカウンターを取ってマサルに勝ったことで力関係が逆転した。

マサルはヤクザの世界で出世しそうだったのに会長に生意気な口を利いてしまい挫折し、シンジも小さな大会で優勝したものの、酒やタバコをやっている先輩に唆されて腐っていく
大人の世界で辛酸を嘗めた2人の変化を同じカットの繰り返しを用いて示すことによって着実に起きた変化を必要以上に語らずに示しているところに本作の映画のエレガンスがある。

「若さ」の感覚に溢れた運動の美

そして3つ目、これこそが本作最大の美点だが、本作の「青春」たる所以は何と言っても「運動」の美が画面全体を通して克明に示されていることにあった。
最たるものは淀川長治も褒めていたようにボクシングのスパーリング・試合のシーンだが、単純に安藤政信のセンスの良さと身体能力の高さに驚かされる。
動きを見ていると彼は本作のために徹底して体づくりをして撮影に望んだらしいのだが、この「素人ながらもセンス・才能に溢れている」という感じがよく出ているのだ。
ジムの会長も褒めていたが、彼のカウンターの見事さは決して演出やアクションの練習を多少した程度では出せない天性のセンスと体のしなやかさがよく画面に出ていた。

練習でも試合でも安藤政信が繰り出すジャブ・ストレート・カウンター・エルボーは美しく、どこで切り取っても本当に飽きずに最後まで見ていられる
しかもその後にさらなる子分の不良たちを相手にカウンターを入れて叩きのめすところも素晴らしいし、また先輩づき合いに毒されていき腐っていくのも決して態とらしくない。
そうしたことの一方で、ほかにもマサルがいたヤクザの世界も喫茶店でタバコを買いに行くところや久々にシンジに会いに行くのも素晴らしいが、特に衝撃だったのはこのカットだ。

そう、お頭が通り魔のごとき名も無き一般人に扮したヤクザに殺されるシーンの唐突さが素晴らしく、「え!?ここで死ぬの!?」という抒情のぶった切り方も素晴らしい。

決して青春のキラキラした溢れる美しさとそれゆえの残酷さだけではなく、大人社会の厳しさ・理不尽さもこういう形で描くことで別の運動も見せていく。
物語としてはここで親分を守りきれなかったこととその後会長に口答えしたばかりに失脚してしまったのがきっかけだったわけだが、ヤクザもボクシングも決して安定していない。
入れ替わりのようにして次々と人がいなくなり、若き才能がどんどん使い潰されていっては新しい世代の人たちに交代していくという新陳代謝が行われている。
そしてもう1つは「漫才」なのだが、皮肉にも一番上手くいったのはマサルが「大阪に勉強してこい」とアドバイスをされたダメダメの漫才コンビだったのだ。

後忘れてはならないのがヒロシとサチコの恋愛模様なのだが、この2人も冒頭とラストでそれぞれ告白やデートに誘うシーンがあるが、冷たくあしらわれている。
このようにして、本作はマサルとシンジの青春と挫折だけではなく、色んな若者も大人も何かしらで動きを見せ、それが大抵の場合失敗に終わりまた逆戻りするのだ。
「キッズ・リターン」というのは正に「若者たちが大人の世界の現実を知って元の世界に戻ってくる」という意味であることが、運動の美いう観点からも示されている。
そう、暴走していく若さに焦点を当てつつ、それをどこか突き放すように達観した目線で厳しく描き切るこの感覚に驚きと安心の混在した不思議な感覚を味わえるのだ。

「男の青春」を決して美化も卑下もしない絶妙なバランス

最後にまとめに入るが、本作の魅力を私なりにまとめるのであれば詰まる所「男の青春」というものを決して美化も卑下もしない絶妙なバランスにあるのではなかろうか。
私自身は決して北野監督が本作でネタとして出したような青春を一度も体験したことはないし、特に物語として何か特別な仕掛けや伏線が散りばめられているわけでもない。
むしろ1つ1つはしょうもない高校生たちの青春と挫折をなぜこうも瑞々しく描けるのかというと、それは決して過剰に美化も卑下もせずに淡々と描かれるところにある。
それぞれにボクサーとヤクザとして大成しようと目標を見つけてストイックに取り組んだはずの若者たちが道半ばで挫折してしまうのもまた青春の一ページなのだ。

私はいわゆる「青春」を題材にした作品が実はそんなに好きではない、なぜならば殆どの場合ごく一部の成功体験のみを上澄みとして切り取ったサクセスストーリーになりがちだからである。
その方がエンタメとして見ていて気持ちいいのは間違いないのだが、そのようにして学生時代にいい思い出があるほど充実した青春を送っていた人なんてごく一部であろう。
大体の人はそんな劇的といえるほどの青春の思い出なんてないはずだし、私だって学生時代に英語の勉強と漫画・アニメ・特撮・映画以外で夢中になって取り組んだものはない。
部活だってテニスと将棋はやっていたものの、そんなに真剣に全国大会を狙って頑張るものではなく、趣味の一環としてやっていたという程度のことである。

そんな「等身大」でありながら、同時に「残酷」で「美しい」といえる若者の青春のありのままを、独特の視線で切り取り突き放すように描いているのが本作の優しさであろう。
学生時代に報われない思いをした人も挫折した人も居ていいのだと、失敗したってどうせそれも長い目で見れば人生のほんの一瞬の出来事にすぎないのだ。
たかだか107分の尺で描かれている若気の至りなんて決してカッコよくも何ともないが、「こういうくだらない世界ってあるよな?」という妙な問いかけがあった。
だから、本作のような学生時代を歩んだわけではない私ですら「まあ確かにこういうくだらなさこそが学生生活だよね」というのを瑞々しく描いているのである。

結果的には報われないからどこか可哀想な雰囲気も漂っているのだが、でもそのくだらなさを笑って許してやるくらいの余裕はあっていいのではないだろうか。
その意味で本作はそれまでどこか他者を寄せ付けない厳しさを持ち合わせていた北野武監督が初めて「底なしの優しさ」を見せた作品であると私は思う。
厳しい大人の世界に挫折する若者たちの残酷な現実を描きつつ、それですらなんだかんだ「若き日の思い出」へと気づけば昇華されてしまっている。
そしてこの2人がどうなっていくのかは曖昧なまま受け手の想像に委ね、北野映画はまた新境地を開拓して次へと向かっていったようだ。

本作から北野映画の作風や風向きが大きく変わるのだが、青春映画が苦手な私ですら本作に関しては妙なところで酔い痴れることができる傑作だと疑いなく断言する。
単純な映画単品としても素晴らしいし、北野映画の明確なターニングポイントになったという点でも「ソナチネ」「Dolls」と並ぶ珠玉の逸品であろう。

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