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アニメ版『黄金バット』を再視聴してみて感じる「ヒーローものにおけるトレードオフの法則」

久々に『黄金バット』の話題を出したので、最近ヒーロー物を根元から見つめ直す上で、今度は別の視点から「黄金バット」が何を示してくれているのかを見直そうと今日から見直している。
一応アニメ版と漫画版はそれぞれ一度ずつ見ているわけだが、流石に演出や作劇の手法は1967年当時という時代性の古さがある為、そのまま今日の視点で見ることは厳しい。
しかし、改めて思ったのは「ヒーローものにおけるトレードオフの法則」であり、世の中は結局全てにおいて「等価交換」の原理原則で成り立っているのだと気付かされる。
アニメ版と黄金バットの設定はアトランティス文明の遺産であり、過去のアトランティス文明の中でその正体がかつてのアトランティスの王様であることが示された。

しかし、王様といっても民のことを思いやる思慮深い政治家タイプではなく、全く真逆の私利私慾で女を侍らせステッキの超能力で好き放題していた悪党である。
そんなことをし続けていた因果応報かはわからないが、アトランティス文明は無残にも突発的に起こった天変地異によって国ごと海に沈められ滅んだ一節があった。
そしてその時に黄金バットは神様の命によって「死にたければその力を世のため人のために役立てよ」と敢えて死なせずに棺桶の中に保存したのである。
つまり、黄金バットにとってナゾーと戦うのは「正義」というよりも「贖罪」であり、大きな力を手にして好き勝手やってきたツケを払い続けなければならないのだ。

こう見ていくと「圧倒的に強い」といっても、その強さを私利私慾に使うとろくなことはなく荒くれ者だったということから生前はとんだ俗物であることがわかる。
しかし、そこで彼は天災によって国ごと滅ぶという「喪失」と引き換えにあの圧倒的な強さと正義感を得ることができたわけであり、だからこそあれだけの説得力があるのだろう。
確かに純粋な強さの権化である黄金バットだが、彼の話は古事記で言うと一番近いのはやはりスサノオ尊であり、彼も荒くれ者として好き放題やった結果高天原を追放されている。
そして追放されたその贖罪としてヤマタノオロチを倒して櫛名田比売を助けて出雲国の統治者となったわけだが、これが日本のヒーローの雛形となっているのかもしれない。

「テーマで見る世界の名画 神話と物語」のp.42の第3章「英雄と怪物」にそれに近い英雄物語の構造にこのようなことが書かれているので引用してみる。

最後に、本性に登場する英雄には興味深い共通点がある。それは捨て子が多いということだ。(中略)ともかく英雄物語は、なぜか捨てられることから始まるのである。

そう、日本に限らず英雄は必ず「捨て子」、もっといえば「喪失」から物語が始まることが多いというのは古今東西万国共通の不文律として存在しているようだ。
それこそスーパー戦隊シリーズで言うなら、例えば初代の『秘密戦隊ゴレンジャー』は1話の冒頭で海城たちが全員黒十字軍の襲撃を受けて仲間や家族を皆殺しにされるところから始まる。
井上敏樹の「ジェットマン」だって竜が大切な恋人を失うところから始まるし、「ギンガマン」なんてヒュウガだけではなくギンガの森まで失うところから全てが始まるのだ。
それこそ「捨て子」という設定なら「フラッシュマン」「ファイブマン」「トッキュウジャー」辺りは物語冒頭で肉親を喪失するところからその再生をかけて物語が開始される。

それが大体の場合「捨て子」という形で表現されるだけで、本質的には「喪失」が物語の導入で描かれることが多く、『黄金バット』とて例外ではない。
ではなぜ「喪失」から始まるのかというと、それこそ正に「トレードオフの法則」、すなわち「等価交換」として「英雄の力」と「平和な暮らし」が両立し得ない関係性だからだ。
圧倒的な強さを手に入れるということは同時にそれ相応のリスクが伴うわけであり、その力が強大であればあるほど失うものもそれに反比例する形で大きくなる。
そしてまた「人間性」と「ヒーロー性」もまたそこで天秤にかけることが多くなるわけで、英雄となる者のほとんどは人間性が希薄あるいはゼロとして描かれることが多い。

黄金バットがこれだけ古い作品ながらに今見ても全く見劣りしないのはその「トレードオフの法則」をよく分かった上で「人ならざる者=境界線の向こう側の存在」として描かれているからだ。
それはあまりにもミステリアスで不気味ではあるが、同時に一切の混じり気がない圧倒的な善・正義感の象徴でもあり、だからこそ人々はそういうものに惹かれるのではないだろうか。
これに関しては今それこそ「ドンブラザーズ」を書いている井上敏樹に関しても同じようなことを自分の父親の評伝の中で「ヒーローと人間」についてコメントを寄せている。

助けた者とかかわりを持たない――これが理想のヒーローだとするならキャラクターづけをしない方がいい。もし個性を持たせたならドラマ的には助けてもらった方はそれを理解しなければならなくなる。そして理解するためには交流を持つことになってしまう。理想のヒーローではなくなるのである。昔のヒーローが大体同じようなキャラ(性格)なのはこう言う理由による。父はこの原型の信奉者だった。だから人間を書く必要がなかったのだ。

そう、一般人と目から見れば英雄も怪物も「超越的な力を持った恐ろしい存在」という点で同じなのであって、現実に例えるなら我々が警察や軍人・政治家に畏怖の感情を抱くのと同じである。
圧倒的な強さを持つ者を前にすると人は恐れをなしてしまい近寄りがたくなってしまうわけだが、この一線を「黄金バット」はしっかり守って作られていたし、当時の視聴者は憧れを持っていたのであろう。
時代が下って井上敏樹は終ぞ「ジェットマン」で大々的にそのタブーを打ち破って「ヒーローの中に人間を描く」ことをし、ヒーローを「憧憬」「強さ」から「共感」「弱さ」の存在へとシフトさせた。
単純に戦隊で恋愛が出てくるだけなら「ジャッカー」「マスクマン」でもやっているが、その中で「理想的なヒーローではない」ということをこれでもかと示して解体したのが「ジェットマン」なのである。

黄金バットはそういう意味で細かいキャラ付けをせずに完全無欠の圧倒的なスーパーヒーローとして描き通せた作品なのだが、同時に自分はどちら側で描こうとしているのかということも考えていた。
「ヒーロー」を描くのか「人間」を描くのか、また「強さ」に軸足を置くのか「弱さ」を見せたいのか……そして戦隊の場合は「組織の規律」を重視するのか「個人の自由意思」を重視するのか。
この辺りの取捨選択をきちんとしていくことで、本当に自分がどんな作品を描きたいのかといのがだんだん見えてきて、その意味でも今この時代に「黄金バット」を見直すことは大変勉強になる。
「ヒーローとは何か?」を考える上で絶対に外すことのできない歴史的傑作であろう。


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