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映画『怪物』ネタバレ感想〜怪物とは何か?という問いかけを子供達の無邪気さで踏み躙る名作〜

是枝裕和監督の最新作『怪物』に関して本日見てきたので、いつも通り感想・批評をば。
実は私は是枝監督作品を見るのは本作が初めてなので、これまでの彼の作品群がどのような特徴を持ち、どんな作家性をお持ちなのかは知らない。
したがって過去作品や他の邦画との比較の中でというよりは、本作単品を見た上での純粋な感想になることを明記しておく。
結論から行くと面白かった、まさに本作をこそ「映画」というのだと疑いもなく感じさせる一本だった。

評価:A(名作) 100点中85点

「うわこれ最高!」とまでは行かなかったが、兎にも角にも1つ1つのショットが本当に綺麗で、画の美しさに本当に息を呑んだ
本作はカンヌで脚本賞とクィア・パルム賞を受賞したそうだが、私はむしろ本作で最も素晴らしいのは何と言ってもカメラワークと映像美である。
特に二度ほど反復される夜の街を引きで撮ったショットと川(?)を引きで撮ったショットなど、とにかく是枝監督は「引き」の映像が抜群にいい。
また、学校の桜の映像や豪雨の映像に関しても色合いや照明が本当に綺麗で、最後の最後まで飽きることなく画面に釘付けになっていた。

そんな本作だが、ネットで評価をすると「怪物とは何か(誰か)?」が議論の対象となっており、また脚本が三幕構成であることなどが褒められているようだ。

こちらの記事では怪物が我々視聴者だということを論じているが、果たしてそれが是枝監督の意図だったかは不明だし、監督はむしろ「簡単に言葉にできないのが一番嬉しい」とも語っている。
そう、映画はあくまでも「画面の運動」であり文章では書けないものを示すことができるからこその映画であり、テーマを語るだけなら看板でも下げて街を歩けばいい。
むしろ最後まで見て行くと本作のラストショットはそんなものすら全部踏み躙ってかき消して行く気持ち良さ・カタルシスが感じられた
ネタバレありなので未見の方は先に映画を見ていただいた上でこちらの感想をご覧いただきたい。

親と学校の悲喜劇が描かれている第一幕

本作の第一幕は夜の街でビルの火災が発生し、そこから赤いテロップで「怪物」が出ており、一見ホラー・サスペンスのテイストを漂わせる始まり方だ。
序盤は麦野親子の家族視点で始まっており、息子の湊が学校でいじめを受けているのではないかというところから学校に対する不信感が募っていく。
だが実はこれ自体が単なるミスリードでしかなく、真相が明かされてからもう一度見つめ返すと寧ろ親も学校の先生たちも滑稽に見えてくる
特に学校の職員たちが母親の早織に雁首揃えて頭を下げ、また早織が校長や教師たちに詰め寄っていく場面はシリアスというよりむしろシュールギャグのようだ。

演じる安藤サクラ自体がとても力のある役者ということもあって、一見この学校でのシーンは悪者を問い詰めていく勧善懲悪のように見える。
だがそれにしては息子の湊の行動があまりにも奇怪で妙な違和感を覚えてしまう、特に車をいきなり飛び出すカットは学校でのいじめが原因ではないだろう。
こうした数々の伏線を散りばめなら序盤は敢えて強烈な違和感を受け手に抱かせるが、完全に麦野親子視点で描かれているために全体像がはっきりとしない。
真相が明かされないまま瑛太演じる保利道敏が退職させられるという一連の事件だけが必要以上に劇的になり過ぎず、まるで日常の一環のごとく淡々と描かれゆく

あらすじだけを追うとなんの変哲もない描写が多いのだが、本作は別に学校という現場の教育問題をテーマとして扱っているわけでも、誰が悪いわけでもない。
それを描くには余りにも描写が断片的過ぎるし、それこそこんな卑近な描写で学校教育の是非について語るには小さ過ぎるだろう、あくまでも「フィクション」なのだから。
したがって序盤の一幕で安藤サクラ視点で描かれるこの悲喜劇は後半で本格的に動いていく子供達のドラマを成り立たせるためのマクガフィンに過ぎない。
ここで描かれるのは一方的に学校を息子を傷つけた悪者と決めつけ的外れな怒りをぶつける母親の滑稽さこそが最大の見所ではなかろうか。

組織の同調圧力で追いやられて行く大人の不条理を描く第二幕

そんな第一幕の真相の裏側が今度は悪者と決めつけられた保利道敏という担任教師の視点で描かれるが、ここで明らかになるのは組織の同調圧力で追いやられて行く大人の不条理である。
第一幕だと湊と依里を傷つけた暴力教師という見え方しかしなかった道敏が実はとても真面目で思いやりに溢れるが、不器用で融通がきかない朴訥な教師であることが判明していく。
高畑充希演じる鈴村広奈とも恋人関係にあるのだが、そんな人間が担任を任されたのに子供達とも先生たとの人間関係も上手くいかず、一方的に悪者に仕立て上げられ辞職させられる。
まるで「正直者が馬鹿を見る」を地で行く展開なのだが、要するに第一幕で描かれていたことは実は全て学校側が辻褄合わせのために口裏を合わせた結果のでっち上げだったのだ。

校長は学校を守るために確たる証拠もなく騒ぎを起こしたくないからと担任教師を悪者扱いして辞職に追い込むので、観客は一見校長ならびに学校の担任たちが「怪物」なのかと一旦の納得をする。
更には中村獅童演じる清高という父親が登場し、息子を「豚の脳」と言い出した元凶が彼であることや息子の依里が虐待を受けているかのような描写があった。
しかも最終的には恋人まで去って全てを失ってしまうため、道敏にとっては早織や学校教師たち他の大人が「怪物」に見えたのではないだろうかと容易に想像が可能だ。
しかし、ここで本当に大事なのは他の大人たちが怪物かどうかではなく、大人の汚さに振り回されたという事実ですらもあくまで淡々と事務処理のように描かれていることである。

脚本としてではなく画面の運動として淡々とショットが紡がれていくのみで、是枝監督は学校教師たちを決して善人にも悪人も見せず肯定も否定もしない
そのことを端的に示すのが自殺しようと思って脇を振り向いた時の引きのショットであり、この画面の運動によってそれまでの可哀想な印象が一気に雲散霧消する。
そして依里の作文が実は横読みであることに気付き、彼はなりふり構わず自身を追いやったはずの元凶である早織と共に教え子たちを探しに行く、もう担任ではないのに。
強烈な嵐の中で探しに行くシーンも切羽詰まっているというよりは寧ろ面白おかしい感じなり、物語とは関係ないところで必死になっている大人たちの馬鹿さが妙に際立つ。

そしてここからやっと視点が子供達に行くのだが、この第三幕にこそ正に「映画とは何か?」があるだろう。

友情を超えたサイレントな愛が育まれる第三幕

第二幕までから一転して今度は湊と依里の視点になっていくのだが、二幕までの段階だといまいち断片的にしか見えなかった2人の人格と関係性が浮き彫りとなる。
このクィア・パルム賞を受賞した事実からもわかるが、2人は単なる男の友情を超えた同性愛を匂わせルようなサイレンとかつ背徳的な愛を育んでいた。
その筋の方々はとてもお喜びになるであろう、特に山裏の電車の中で2人が抱きつき思わず接吻でもしそうな雰囲気になった時は誰もが同性愛を想像したに違いない。
実際、湊はトロンボーンを校長と一緒に吹くシーンで「好きな人がいる」と言っていること、また「みんなの前で話しかけないで」ということからもそれが明らかだ。

依里が転校しそうになったのも実は嘘であり、ここでやはり依里が父親から虐待を受けていることが示され、チャッカマンの火傷の跡が毒親のものであるとわかる。
2人は学校にも家庭にも自分の居場所がなく、クラスでも同性愛を疑われ見世物にされた挙句家庭でもそれぞれが親のエゴで振り回されていた。
そう、第二幕までだと単なる可哀想だけど不気味な子たちとしか思えなかった子供が実はとても元気である年相応の子供だと示されるのである。
ここで実は2人にとっての怪物が「自分たち以外のもの=世界」だと納得できそうだが、ここで大事なのは「怪物とは何か(誰か)?」ではない

第三幕はそんな物語的な構造から子供たちが解放されていく構造となっており、いわゆる「集団」から解き放たれて一対一の関係になって初めて2人は生き生きとする
走りもするしごっこ遊びしたりもする、その中には猫の死体を土に埋めて火葬するなんて残酷なことも平気で行う、そこにはまさしく「映画」があるだろう
是枝監督が坂元裕二という天才脚本家と今年3月に惜しくも亡くなられた天才作曲家・坂本龍一の力を得て本当に描きたかったものがここで結実する。
それは2人の子供を大人たちの関係性から解き放ち、その自由闊達な身振り手振りと笑い声・笑顔によって解放し物語を超えていくことにあった。

怪物とは何か?なんてラストショットの前では無意味

そんな紆余曲折を経てのラストカット、それまでの立ち込める闇や嵐が嘘のように眩い太陽が現れ誰もいなくなった草原を湊と依里が駆け抜けていく。
大人たちや同級生たちからの柵から解放され縛り付けるもののなくなった少年たちは解放感に満ち溢れ、ここで映像とともに圧倒的な祝福のカタルシスが齎される。
そこではもはや「怪物とは何か(誰か)?」という問いすら何の意味も持たず、寧ろそれすら少年たちは踏み躙って自分たちの新たな先へ行こうとする
果たして2人は友達から発展するのか、一生懸命探しまくり翻弄された大人たちのこれからはどうなるのか、そんな疑問を全てこのラストショットで打ち消していく。

黒澤明映画や「脱・是枝作品」なるものが巷では叫ばれているようだが、私としては寧ろ構造的には『スタンドバイミー』に近いのではなかろうか。
最初の段階だと単なるホラー・サスペンスでしかなかった物語が最終的に画面の運動として多感な少年期から思春期へ移行しようとするジュブナイルものへ変化したのである。
ひとことでこれだと断定できないのは正にここであり、最初は大人たち視点の物語だったものが映像として最終的に少年の物語に変容してしまった。
果たして少年たちの将来がどうなっていくのか、日常に戻るのか冒険に出るのか、物語としての結論を放棄したまま、ただ少年たちが闇から光へ脱出した事実だけが示される

私自身は誰にも共感できなかったので(そもそも父親も教師も経験していないので)客観的にしかわからないが、それでも間違いなくこれは「映画」だと思えた。
是枝監督の他の作品を見てみないことには本作の位置付けや真意は見えてこないかもしれないが、それでも劇場で見るだけの価値は存分にある。
余裕でマリオを超えてしまったわけだが、果たして北野監督が出す新作『首』がこれを超えられるかは今年の映画における1つの試練となるであろう。

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