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小林靖子という「脚本士」の孤独と異端さ

小林靖子という作家を未だ尚誰も正確に語り得ないのは、彼女が抱える「孤独」と「異端さ」にあるだろう。
だが、彼女が脚本を手がけた作品を見る時誰もが「これは小林靖子だ」と思わず分かってしまう、認識させてしまうような説得力を画面に反映させている。
それを人々は様々な言葉で言語化しその魅力を読み取ろうとするのだが、そもそもそれ自体が極めて愚かな行為ではないかと思えてならない。
3年近く前に制作された『ジョジョの奇妙な冒険』の実写版スピンオフ『岸辺露伴は動かない』を3話担当した時のインタビューにて彼女は自身をこう述懐する。

作家や脚本家は自分の表現したいことや自分にしか書けないものを持っているイメージがあるのですが、私はそういうタイプではないんですね。だから自分のことを作家とも脚本家とも思っていないんです。強いて言えば“脚本士”作品やキャラクターの魅力を映像的にどう伝えるべきかを考えて、これまで培ってきたシナリオライティングの技術を駆使してそれを実現する。そこに自分らしさは必要ないというか、全く意識していないですね

アニメ・特撮作品で人気の小林靖子氏「自分らしさは必要ない」 ドラマ『岸辺露伴は動かない』脚本

言い得て妙である、自身を「脚本士」、即ち「脚本の士(さむらい)」と表現する彼女は作品でもインタビューでも食えない人だ(まあ取って食おうなんて不逞な輩はいないと思うが(笑))
親友の黒羽翔氏は小林靖子の脚本について「自分自身の人格や思想を投影させている感じはまるでない」と語っており、確かに彼女が描く人物像は良くも悪くも彼女の思想を直接に映し出さない
登場人物のドラマというか人生自体は間違いなく画面の上で活写されているにも関わらず、そこにはこちらに訴えかけてくるような暑苦しさや説教臭さといったものがないのだ。
まるで映画でいう映写機というか、あくまでも登場人物の掛け合いをそこに映し出す「プロジェクター」であり、彼女の脚本にはいわゆる「共感」の要素が微塵も感じられない

よく男性女性を問わず小林靖子の脚本に「共感できる」「凄い」といっている人をネットでもリアルでも見かけるが、私からいわせればそれはただの錯覚である
小林靖子は決して「共感」で視聴者を魅了するのではなく、シナリオライティングの技術という「必殺技」と構成の妙で視聴者を落として引き込むのだ。
そして作品でもインタビューでも淡々と本質を突く発言や回答をするにも関わらず、決して多くを語らないというスマートさがまた洗練されていて「粋」だと感じさせる。
だが、作品を見ると彼女が作るものにはどこか「影」があり「孤独」がそこに感じられ、それがミステリアスなクールさとして反映されるのだ。

初のメインライターを務めた『星獣戦隊ギンガマン』の頃からそうだが、彼女の脚本は実にサッと器用かつ無難にこなしたような、即ち全く苦労して作った感がない
あの頃はほぼ新人上がりだったにも関わらず、まるで出来上がったベテランの風格さえ感じさせ、それこそ井上敏樹や浦沢義雄ら先達の脚本家にまるで引けを取らないのだ。
それは私にとって「喜び」「感動」というプラスの感情よりも「驚嘆」「困惑」といったマイナスの感情の方を引き起こしていたように思う。
もちろん「ギンガマン」を初めてテレビの前で噛り付いた時に小林靖子の名前を意識したわけではないが、少なくとも既存の作家とは違うというのは理解できた。

そもそも小林靖子はデビューまでの経緯からして前例がない、何せ東映に脚本を送ったらたまたまた堀長文や宮下隼一ら当時のメタルヒーロースタッフの目に留まったという経緯である。
『特捜ロボジャンパーソン』でデビューしてから『星獣戦隊ギンガマン』でメインを務めるまでの5年間で彼女の作家性が視聴者の目に留まることはあまりなかった。
しかし、彼女が手がけた全ての特撮作品、そして今ならNHKの時代劇で手がける脚本の作風は既存の作家・脚本家のいずれとも似て非なる唯一無二の孤独と異端さを内包している。
その作家としての孤独と異端さこそが彼女の描く登場人物と本質的に相通ずるものであり、乾いた切なさをその身に纏いながら生きているのだ。

まるで海外の大学飛び級のようにして脚本士としてデビューした小林靖子は時代劇趣味を持ちながらも、既存の作家の系譜のどこにもその作風の源泉を求めることができない
例えば上原正三なら円谷英二や金城哲夫の存在が挙げられるし、曽田博久の場合は松浦健郎・鳥海尽三に師事して脚本家としての作風を形成するに至っている。
井上敏樹の場合も雪室俊一や小山高生がいたし、杉村升は小川英、浦沢義雄が鈴木清順と大和屋竺、武上純希が首藤剛志・藤川桂介と明確な師匠筋がいた。
つまり歴代のスーパー戦隊シリーズのメインライターを担当した人には誰かしらその作風や思想性となるバックボーンがきちんとあったが、小林靖子にはそれがない

小林靖子本人は「堀長文さんや長石監督には特にお世話になった」と述懐してはいるものの、ではその人たちが彼女の直接の師匠だったかというとそうではないだろう。
鷺山京子もあくまで仕事仲間・同僚の関係ではあっても「師匠」ではないのだから、彼女が誰かについて脚本士としての才能を伸ばしていったという感じはない。
そしてまた、自分が手がけた過去の作品に対してすら客観視して冷めた言葉を放つ彼女は「ギンガマン」について「今の自分には書けない」とまで言い放つ。
更には「終わった物語には興味がない」「このキャラはここで死なせた方が幸せなので生かしておきました」などと一貫してドライな姿勢である。

この冷めたような、さりとてニヒリズムや悪意とまでは言い切れない彼女の作風は既存のスーパー戦隊のどの作家にもまるで似ていないが故の孤独と異端さ以外の何物でもない。
また、自身の幼少期の体験やトラウマが彼女の脚本の内容やヒーロー像に影響を与えているというわけではないこともまたその孤独を際立たせている。
そのことが「ギンガマン」〜「トッキュウジャー」までの新たなスーパー戦隊神話を作り上げることにもなるのだが、これはまた個別の作品論で語らせていただこう。
いずれにせよ、今後も小林靖子はその作風で一貫して視聴者を驚かせつつ、自身は淡々と職人の如く仕事をこなす見切れない人であるのは間違いない。

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