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アニメーションを「映画」として論じることが難しい理由は意味内容ではなく「形式」が違うからである

映画を「見る」こと、わけてもアニメを映画として「見る」こと、そしてそれを「現在の形式」として論じることは非常に難しい。
何故ならばほとんどの日本アニメ、特にテレビシリーズは3コマ打ちと決まっており、実写のようなコマ打ちができないからである。
アニメーションに詳しい人であれば、実写映画とアニメーションが形式としてどう違うかはご存知であろう。
アニメーションには映画のようなカット・ショット・シーン・シークエンスといった撮影技法や画面の構成以外に「コマ打ち」が存在する。


フィルムのコマ打ち

具体的にはフルアニメーション(1コマ打ち)2コマ打ち(1秒12コマ)3コマ(1秒8コマ)という3つの技法に区別されているのだ。
実写映画はいうまでもなくフルアニメーションであり、これをゴダールは「映画は一秒間に24回の真実、あるいは死」と述べている。
そう、現実のシームレスな風景や日常の中から1秒24コマの世界に切り取って撮影しているわけであり、通常の映画を平均90分として最終的には129,600の真実あるいは死が描かれていることになる。
しかし、アニメーションの世界においては必ずしもこの法則が適用されているわけではなく、特にテレビシリーズはよほどの例外がない限りほとんどが3コマ打ちだ。

わかりやすく見せるために動画で見てみよう。

どうだろう?同じ歩く動作を見せているにも関わらず、フルアニメーションに比べて2コマ、3コマの方はシームレスでない分動きがカクカクしていないだろうか。
もっとわかりやすく見せるために、アニメ「爆走兄弟レッツ&ゴー」の第一話を見てみよう。

ここの14:28~14:29の1秒間を0.25倍速で視聴するとわかると思うが、実は烈と豪は一定のフォームの走りをカクカクした動きでしか表現できていない。
これを例えば初期ディズニーのフルアニメーションだったらもっと滑らかに再現できるであろうが、これが日本のアニメが海外にどうしても匹敵しづらい理由である。

これは『白雪姫』(1937)の前半だが、やはりフルアニメーションで実際の人間の動きをアニメとして落とし込んでいるため、実写と比べても違和感がない。
現在にも通用しうるだけの作品となり得ているのは決して意味内容が素晴らしいからではなく、形式として美しいからであり、日本だとこのクオリティーはなかなか実現できないのだ。
だからこそこんなことを言ってしまうのは何だが、正直昔の日本のテレビアニメは作画の質というだけではなく形式としても映画批評の文脈を当てはめにくいところがある。
ましてや手塚治虫がやっていた初期の「テレビ漫画」なんて揶揄されていた頃の日本アニメ(1950〜60年代あたり)は富野由悠季がいったように、ほとんどが漫画の技法の延長線上で作っているのだ。

とはいえ、全部手描きでやるとなるとアニメーターが過労死しかねないほどの作業量になってしまう、何せ129,600の真実あるいは死を細かく再現しないといけないからである。
だからこそ導入されたのがCGを使ったアニメーションであり、その点において『トイ・ストーリー』(1995)が確立したフルCGアニメーションによる形式は画期的だ。
私が必ずしもCGを使った表現に反対ではないのは正にここにあって、CGを使ってもピクサーはそれを1つの映画として成立させてしまう術を確立していたのである。
対して日本のアニメーションは大変遅れていて、フルCGを用いて作られた『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』ですらも残念ながら『トイ・ストーリー』の域にすら到達できていない

生前に小津安二郎がディズニーの『ファンタジア』を見たときに言っていた「こいつはいけない。相手が悪い。大変な相手とけんかしたと思いましたね」と言っていたのは決して過去の断片ではなく今現在もそうなのである
何せ漫画の神様・手塚治虫やオスカーを取った宮崎駿、更にはCGと手描きの融合を果たしカンヌまで行った押井守ですら初期ディズニーやピクサーが確立した技法ほどの革新を起こせていない。
日本が物作りに優れていながら、それでも結局は海外で既に発信したことのエピゴーネンにしかなっていない理由は正に国力が生み出す技術力のレベルの差にあるだろう。
日本が海外に対して勝負できた数少ない分野は何かというと怪獣映画(ゴジラ・ガメラなど)か集団ヒーロー物(スーパー戦隊シリーズなど)、時代劇・任侠映画辺りだろうか。

あとはラブロマンスもSFも大体において日本は海外の追従になってしまっているし、また日本のアニメーションを「映画」と見なして評価することが難しい理由にもなっている。
何せ日本アニメ史上最大のエポックなんて言われている『機動戦士ガンダム』(1979)ですら、まず世界観やビジュアルの殆どを『2001年宇宙の旅』『スター・ウォーズ』のエッセンスで塗り固めているのだから。
だから純粋なSFとしての「形式」で勝負すると海外には敵わないので、結局ヒューマンドラマという「意味内容」で勝負するしかなくなってくるのだ。
そしてそれに合わせるかのように、日本のアニメーションの批評が「形式」ではなく「内容」の批評になってしまうのも、そういう事情があるのではなかろうか。

そう思うと、この間書いた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を内容としてではなく形式として評価したのは若干気が引ける、富野監督はおそらく「内容」で勝負したかったのだろうから。
でもあの作品が唯一ガンダムの映画の中で「形式」として美しく、リズムも含めて大変素晴らしいので私はあの作品を高く評価したのである。
そう考えると、「形式としての機動戦士ガンダム」「映画としての機動戦士ガンダム」を論じて批評してみても面白いかもね。


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