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普通が普通に普通といわれる コラムエッセイ#9

僕は今家族と住んでいる。父親がその名の通り大黒柱なわけだが、大黒柱すぎて困っているところがある。

とりあえず父親の意見は絶対で、僕の意見はほぼ通らないと言っても過言ではない。それは幼少期からそうだった。何を言っても意見は通らず、彼なりの正論を下すだけ。次第に、僕は自己主張をしない人間になった。

うちには父親が決めたルールがあり、それを1つでも抜かすと怒られる。

例えば話にするとかなり独特なものになるので省くが、自分が思っているより「普通」なことが多いのかもしれない。

けれど僕には僕の「普通」がそこにはあって、それが世の中から見たら変わってるという点になるかもしれない。

「普通」×「普通」が交わって初めてルールというものが完成し、試行されていく。僕はそういうもんだと思ってる。

家族というもののルールに置き換えると、大きくみれば世の中においても同じことが言えるのかもしれない。

もっとちゃんと
もっとキレイに

父親や母親なりの「ちゃんと」なので自分にとっては抽象的すぎて何もわからない。けれど僕は一生懸命ちゃんとやる。けれど怒られる。理由は明確で、誰かが何かを達成する時、その人の「ちゃんと」の基準を満たさなくてはならないから。

要するに、僕は家族が求める基準をクリアできないので、いつも通り叱られる。

「何回言えばわかるんだ」

この言葉ば幼少期から今まで何回言われたかわからない。

逆を言えば、理論的に説明してこちらが納得できればそれは守れる。これはこのために必要で、だからこうやってほしいとかね。

それを父親の機嫌だとかで自分の中の普通を否定されるのは嫌だなと思うわけです。

「あー、たしかにな。そうだよな」

と家族の言い分と僕の納得度が合致しないと、言われたことに対して行動することはできない。というかする気もない。

今の現状を考えるとすぐに一人暮らしは無理なので郷に従うしか方法はないのだが、「普通」のくらしをしたい。

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