今こそ、祈りを

 2月22日はボーイスカウト・ガールスカウトの創始者の誕生日に由来する世界友情の日でしたが、そんな日に飛び込んできたニュースは…

 そして、昨日の昼にロシア軍がウクライナに侵攻し、軍事行動が始まってしまいました。それ以降については報道の通りなので、これ以上はリンクを貼らないことにします。個人的には現在新聞・テレビのない寮生活のため、余裕があればネットでニュースを拾う程度ですから、あまり現実味がないというのも否定できない事実なのですが。(もちろんネットでも動画は見られますが…)
 これまでにも多くの人々が最悪の事態にならないことを願い、関係者が奮闘していたことと思います。しかし、現実はむごいものです。
 そのような時に、先週のラジオ番組(TBSラジオ「GIFT~未来への贈り物~」)で家入レオが紹介していた詩を思い出しました。最後の2連だけご紹介します。

神を語るのなら 「神など存在しない」そう言う人達と言葉を交わすために
祈るのなら 「祈っているだけでは現実は変わらない」と言う人達の分も

若松英輔「言葉の人」(『燃える水滴』(亜紀書房、2019)所収)

 若松さんは新潟県 糸魚川市出身で、カトリック糸魚川教会で洗礼を受けたクリスチャンです。

(教会内に若松さんの資料が展示されていることが紹介されています)

 ちょうどコロナ禍が始まった時期から放送されたテレビ番組では、小友聡牧師(日本基督教団 中村町教会東京神学大学教授)と旧約聖書・コヘレトの言葉(口語訳・新改訳では伝道(者)の書)について6回シリーズで対談しました。こころの時代は放送前にテキストが発売されますが、放送された内容が出版されるのは異例ではないかと思います。

 コヘレトの言葉3章は「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(1節)で始まり、様々な「時」が列挙された末に「愛する時、憎む時 戦う時、平和の時。」(8節)で締めくくられています

 「どういう状況であっても神は私たちと共にいる」と信じるキリスト者であっても、神はどこにおられるのだろうかと思ってしまうことはあります。自分に苦しみが降りかかる時も、社会がこのような事態に陥る時も…
 昨日はそのような心境に多少なりともなっていましたが、今朝読んだ聖書の言葉を通して改めて励まされた気がしました。

清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

テモテへの手紙 二 2章22節中盤以降

 「清い」と聞くと、真っ白で何の汚れもない状態をイメージされる方が多いかもしれません。「主を呼び求める人々」というのは、簡単に言えばキリスト教徒のことです。キリスト教徒が常に真っ白な心なのかと言えば、決してそうではないと言えるでしょう。罪を悔い改め(神に方向転換し)、神による救いを受けていても、この地上で生きている以上は罪を犯す性質から切り離されることはできないからです。教会は「赦された罪人の集まり」という表現が、このことを端的に表現しています。教会でも様々な問題・トラブルが起きる訳です。
 キリスト者一人一人も、その集合体(共同体)である教会も、日々様々な課題を抱えています。それでも「共に」が大切だということは、私自身今月6・13日の礼拝が会堂に集まらない形になったことで痛いほど感じさせられました。

 軍事行動が始まって1日余しか経っていませんが、ネットを含めた世の中には様々な情報・言葉が飛び交い、中には非常に攻撃的なものもあるようです。それに比べて祈りは…という思考回路に陥ってしまうかもしれません。このことは若松さんの詩でも言及されています。しかし、祈りの力、厳密に言えば祈りによって働く神の力を信じている者にとっては「祈ることこそ」であることを改めて心に刻みたいと思います。そして、たゆむことなく追い求めるべきものは正義・信仰・愛・平和である、とテモテへの手紙の著者・使徒パウロは勧めました。当該国について認識を深めることは大切ですし、声を上げたり支援活動をしたりすることも大きな意味があると思います。しかし、それができないとしても「祈りなら誰にでもできる」のではないでしょうか。

 私達はウクライナだけではなくロシアのためにも、さらに言えばすべての国々のために祈るべきであると思わされます。ロシアの人々の思いが決して国家の方針と同じだとは限らないということは、ツイッターを通して教えられています。

 現在進行形で危険にさらされている人々のために、事態悪化を避けるために尽力する人々のために、平和を希求し、声を上げている人々のために、心から祈る日々でありたいと思います。
 先日の記事で紹介しましたが、キリストが十字架の死へと向かって行かれたことを想起する悔い改めの期間「レント」(受難節、四旬節)が来週3月2日(水)の「灰の水曜日」から始まります。私達一人一人の心の中にも他人と争ってしまう性質、突き詰めるところの「罪」があることを改めて自覚し、そんな自分を救うために十字架にかかられたキリストの姿を見つめながら祈りと黙想を深める期間です。
 また、教会暦(典礼暦)には含まれないものの、来週金曜日(毎年3月第一金曜日)にはこのような行事も行われます。

 世界祈祷日についてはの紹介を一部引用します。
「1887年、米国の女性たちが移住者や抑圧されている人々を覚えて始めたもので、第2次世界大戦後は、和解と平和を求める祈りの日として教派を超えて広がった。」
 これら2つの行事がこの時期に重なるというのは、暗闇の中の光のように思えるのです。実際のところ、世界祈祷日に参加している教派は「すべて」とは言えないのが残念なところですが、それでも世界的に同じプログラムを用いて共に祈りを捧げるための日が用意されているのはありがたいことだと思います。
 上掲記事にもリンクは貼られていますが、具体的な開催情報が掲載されているブログへのリンクをここにも貼ります。オンライン参加ができる集会も多くあるようです。

 冒頭に引用したコヘレトの言葉3章は、11節で「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(ここだけ新改訳)とあります。私たちの祈りが美しい神の業が実現されるための一助になることを信じ、ご紹介した2つの「時」による助けを借りながら、平和と正義の実現のために祈り続ける者でありたいと改めて思わされます。

 最後に、平和を祈る讃美歌の中から一つだけ、そしてキリスト教メディアの記事で目についたものをご紹介します。

3/25追記:若松さんの近著(共著)として、これも現代に有益化と思いますのでご紹介します。下記サイトで、共著者による5回シリーズの対談映像も掲載されています。ぜひお聞きください。


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