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なぜ学ぶのか

⸺なんで勉強しなきゃいけないの?
将来困るから。

⸺どんな風に困るの?
勉強すれば、いい学校、いい会社、いい収入、そしていい暮らしが手に入りやすくなるでしょ。(量的な生産と所有のため)

⸺それが必要なければ、勉強しなくていいの?
必要でしょ!だから勉強しなきゃダメ!(この世は変わらないんだから)

こうした常識は、徐々に変わりつつあるようにも感じますが、私を含む昭和世代にはまだまだ根強くもあります。しかし、生産の消滅とともに、いずれは消滅するのでしょう。その時には、学びもやはり消滅するのでしょうか。

言葉を学ぶ、世界を学ぶ

学び方は一様ではないですが、私の知る限りでは、日本の教育において、「高校まで」と「大学以降」では、その対象や目的が異なります。高校までの学びでは、凡そ教科書の内容をどこまで修得したかが問われます。だから、習う内容には、「答え」があります。教科書の内容とは、体系化された人類の知的生産の成果であり、集約すると「言葉」です。その言葉の対象とは、再利用可能な働きです。太陽という働き、リンゴという働き、数という働き、時間という働き、お金という働き、神という働き、無限という働き、そして、私という働き。私たちが活動する環境の中には、まだ発見されていない、利用されていない働きが、無数に存在しています(空性)。一方で、利用されなくなり、忘れ去られた働きも無数にあることでしょう。言葉を与えられた働きの総和が「現在の世界」です。この言葉でできた世界の基本作法を体系的に学ぶ場が、高校までなのです。
また、例えば、リンゴだけでなく、バナナについても学ぶことによって、複数の働きを同時に捉え、俯瞰できるようになります。そこには、個別の働きだけでなく、複数の働きの類似性や差異、相互作用といった働きも現れます。それらの現在に及ぼす働きだけでなく、長期に亘る、あるいは将来に及ぼす働き、さらにはその働きの一般化(法則化)についても考えられるようになります。より多くの可能性や、より多くの選択肢を考えられるようになり、その結果、部分最適ではなく、より全体最適(ベター)な選択肢を考えられるようになります。学ぶことによって、単に知識が身につくだけでなく、こうした高次の思考も習得することができます。この学びとその効果の習得は、教育課程を出た後も、生涯において続きます。

言葉を作る、世界を作る

さて、高校を卒業して、大学に進むと、学部や学科などによって分類された専門領域を選択します。ここにも教科書はあり、その専門領域の世界を学びますが、ここで学ぶのは、最新の理論や学説、技術であり、いわば、言葉でできた世界の限界です。境界線の向こう側にあるのは「未知」。そこにはまだ、「答え」はありません。その未知から、新たな再利用可能な働きを発見するための活動が「研究」です。新たに研究によって発見された再利用可能な働きには、新たな言葉が与えられ、その新たな言葉によって、世界は拡張されます。大学には、研究と教育の二面性がありますが、その目的は、世界を拡張する新たな言葉を作るためと言えるでしょうか。そして、この新たな言葉を作るために、それまでの学びによる知識と思考力が、重要な役割を担うのです。学部段階の研究成果が世界に与える影響は、非常に限定的ですが、大学院や研究者へと進むことで、世界を拡張しうる働きを発見するようになります。
また、大学や研究機関ばかりが、世界を拡張するわけではありません。私たちの多くは、遅かれ早かれ、学校での修業期間が終われば、社会に出て、その社会の担い手、すなわち社会人となります。そこでは日々、大発明やイノベーションとまでは行かなくとも、生活や生産に直結した課題の解消に取り組みます。課題を解消するための手段は、人類が蓄積した膨大な「再利用可能な働き」です。目の前の課題の解消にどの働きを応用するのか。いくつの働きを組み合わせるのか。ここにはやはり、高次の思考が必要です。こうして発明された新たな働きもまた、世界を拡張します。研究が世界の平面を作り、応用が世界の高さを作る、とでも言えるでしょうか。

共有の時代に向けて

半世紀以上前から、資本による生産性を高めた先進諸国では、出生率が2.0を下回る人口減少のフェーズに入っています。また、同じ頃から、国際的な環境会議が開かれるようになりました。

恐らくはその頃から、図らずも人類は大きな弧を描きながら、その針路を変え始めていたのではないでしょうか。その一つの集大成となったのが、2015年に国連で採択されたSDGs。現在でも、貧困や政情不安にさらされている人々がいるものの、一方で、かつては発展途上と呼ばれたアフリカ諸国などが、「所有の時代」の最終ランナーとしてゴールに向かっています。この大転換の時代において、引き続き、国家間や個人間の所有戦争(泥試合)のために、学びや教育を使うべきではありません。すでにその成果を、人類全体で「共有」できるレベルにまで、世界は拡張されているはずで、「誰一人取り残さない」を掲げるSDGsは、それを背景にしているのではないかと思います。

そして、「図らずも」コロナ禍は、所有の時代にブレーキをかけ、この針路変更を促しているように見えなくもありません(決してコロナ禍を歓迎しているわけではありません)。

AIにできること、できないこと

こうした流れと並行して、目下、デジタル技術の活用による、急速な社会変革が推し進められています。これは、私たちの社会とその構成要素が、いかに情報として存在しているかを明確に示してくれています。その中でもAIによる「高度な自動化」が、活躍の場を広げています。個人的には待ち遠しいレベル5の完全自動運転は、予想よりも近い将来に訪れるかもしれません。

これからしばらくの間に、AI、あるいはAI化された機械に置き換わる職業は増えていくでしょう。しかし、共有の時代では、それを恩恵として、人類による労働の総和を縮小すればよいだけです。これからの学びや教育の目的は、量的な労働や所有のためではなく、共有を拡張するためへと切り替わっていくべきです。いま教育課程にいる子供たちの世代は、それに気づかずとも、それを選択し始めているようにも見えます。ただ、この共有の拡張も、人類に代わってAIが解決してくれる時代がくるのかもしれません。現時点では、AIには感情や創造の能力を獲得できない、あるいは苦手という見方があります。私は、これとは別に、ここまでに述べてきたような新たな再利用可能な働きをAIが発見して「定義づけ」ができるか、という課題があるように思います(これも創造の一部かもしれません)。しかし、これらについても、私たちが望むならば、いずれは可能になることでしょう。

「私」の根底にあるもの

私たちの感情や創造の根底にあるものは、あえて言葉で表すなら「不安」であると、私は考えています。不安は未知から、極言すれば、私たちのその存在の根拠のなさ(「私」を定義できないこと)から生まれます。喜怒哀楽の感情は、その不安に対する外部からの作用によって生まれます。そして、文明、文化は、その不安を解消する(覆い隠す)ために生まれました。もし、AIもこの不安を獲得することができるのであれば、人類と遜色のない思考や、同情や共感を含む、私たちとの意思疎通が可能になるはずです(同時に妬みや犯罪も起こすようになります)。これは、決して不可能なことではありません。私たち自身もまた、見方によっては、化学反応と電気信号の塊で、何を意志や感情と呼ぶかのは、明確ではありません。言葉や意味の輪郭は、社会通念上で維持されているにすぎません。認知科学の世界では、私たちの意志の存在についても議論されています。

意志について調べていたら、こちらの議論が面白かったです。

よって、私たちの多くが、AIの「ある振る舞い」を、「感情として再利用可能である」と認めれば、それは感情になりえます。愛玩ロボットに感情移入することはすでにできていますし、ペットが喜んでいると判断するのも同じ構造のはずです。ただ、機械が意志や感情を獲得した時代に、人類や学びや社会が、どのように存在しているのかを、現在の世界から想像することは、宇宙の外側を想像するのと同じくらいに難しいことのように感じます。目下のところはまず、これからの半世紀について、考えるべきではないでしょうか。

なぜ学ぶのか

学びとは、人類が不安と付き合っていくための営為です。残念ながら、不安が完全に解消されることはありませんが、それでもなお、不安の軽減に取り組むことが、私たちの生きる意味ではないかと思います。また、「世界」は日々、更新されており、特に現代は、100年に一度とさえ言われる大変革の時代です。二十歳前後までに受けた教育や獲得した価値観だけでは、この先の時代に参画し、作り、楽しむことは難しいのかもしれません。最近では、リカレントや、リスキリングという言葉もよく耳にします。社会に出た私たちも、勝ち残りのためにやらされるのではなく、よりよい社会の創成とその共有のために学び続けることが、より重要になってくるのではないでしょうか。

⸺なぜ学ぶのか。
少なくとも当面は、こう答えられるのではないでしょうか。
「新しい世界を作るため」

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