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早6月。学校や商業活動が再開されはじめました。感染者数が減り、全国各地の解除が始まった頃からでしょうか、近所に漂っていた緊張感が薄らいでいくのを感じました。いまもその渦中ならぬ、禍中にありますが、それでも様々な方々のご尽力と、我々全員がそれぞれの形で当事者となったことで、今後に向けたひとまずの足場は組まれたようにも感じます。しかし、この2ヶ月間で染みついた警戒心は簡単には消えませんし、当面の間に続く制約は、我々の行動様式を変えていきます。

さらばモーレツ

飲食店などの再開の動きとは逆に、当面の需要が減るなどして、企業の一時帰休が広がっています。バブル崩壊直後に、難関を突破してこうした会社に就職した、大学の同期たちは、いま必死になってこの難局にあたっていることでしょう。

ただ、「早く経済を元に戻したい」方々には申し訳ないですが、この2ヶ月間の様々な生産が休止した世界を体験したことによって、これまでの資本主義の下の大量生産・大量消費(過剰と廃棄、そして疲弊)は終焉に向かい、SDGsやESGなどを基軸とした適量生産・適量消費に向かう流れは、加速するのではないでしょうか。「経済を元に戻したい」という一方で、対比としてはズレているかもしれませんが、「コロナ前には戻れない」という論調も非常に多く見かけます。世界中で人々の行動が制限され、代表的な産業の代表的な企業の破綻や危機が伝えられ、客観的に見て、元に戻すという選択肢を考えにくいという面はあるでしょう。しかし、これだけ声高に叫ばれているのは、論者たちが、元に戻ることを望んでいないのではないか。「できない」とは、多くの場合に「したくない」の意です。

もちろん、資本主義という思想からの転向は容易ではないでしょうが、ここで何度か述べているように、テクノロジーの発達によって、我々は生産力としての役割(時間)から解放されつつあります。生産量を脇におけば、週休2日から3日となることで、我々の生産力としての役割は、少なくとも日割りで20%の削減です。私が子供の頃は「半ドン」の週休1.5日が常識でした。生産量にしても、不安に駆られた買い占めや、巣ごもり特需を除けば、この2ヶ月間の流通不足による混乱はなく、むしろ、不要不急の物品やサービスが多いことを知りました(今後も不要ということではありません)。また、消費サイクルを見直すきっかけにもなりました。ようやく、昭和の「モーレツ」と決別すべき時がきたのかもしれません。

雇用維持と生産性向上のパラドックス

テクノロジーは進化し、人類がこれを意図的に捨てない限りは、労働時間は減少していきます。500人以上の事業所で、1960年には一人あたり年間2,400時間を超えていましたが、2010年以降は1,800時間を切っています(-25%)。

これから加速する労働時間の減少にブレーキをかけるのは、労働を失うことへの恐怖です(損失回避)。これまで労働と生産は一体(=付加価値)でしたが、これが分離していきます(関係が弱まっていく)。そして、生産によって生まれるのが所有(権利)です。逆を辿れば、所有は労働に帰属してきました。ところが、労働=生産の鎖が断たれることで、生産=所有(権利)の鎖が切れ、結果として、労働=所有の鎖が切れる。これが、現行のルール(考え方)では、労働を手放すことは、所有を手放すことになる理由です。目の前に捨てるほどの在庫があっても、労働しない者は、原則として、それを所有することができません。

だから、労働は不要になってきているのに、雇用は維持しなくてはならない。雇用を維持しながら、生産性の向上を実現するためには、拡大を続ける市場が必要です。しかし、市場という資源も枯渇してきた。然るに、アクセルとブレーキを同時に踏むような難問に世間の経営者は挑むことになります。新たなアイデアに基づく、新規市場の開拓(による代謝)はもちろん必要ですが、それは、新旧の交代にすぎません。市場の上限値は、人口×24時間です。国連では、世界人口は2100年頃に110億人程度で飽和するという見通しのようですが、これから30年程度で90億人に達し、その後は減少に転じるという推計もあります(女子教育の普及などにより)。どのみち、現行ルールでの共存は難しいのではないか。

先進国で出生率が下がっているのは、将来への不安もあるでしょうが、これ以上、社会として生産力、すなわち人口を増やす必要がないことを、無意識下で察知している面もあるのではないかと思います。生産が人の手から離れていけば、GDPという物差しも意味をなさなくなります。行き着く先を極論すれば、所有なき世界は、国境なき世界です(想像しにくいですが)。そもそも地球の恵み、太陽の恵み自体は、本来、所有されません。それを動かすことによって所有が発生します(あるいは武力による占有)。

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さて、適量生産と生産からの解放によって余剰となる個人のリソースは「間」となり、学びや遊び、家庭、地域社会(パーソナル=私とローカル=共)といった「場」に向けられていく。同時に「お金を稼ぐのか、使うのか」といった生産と消費の境界が曖昧になっていく。現時点で、その世界をイメージすることは難しいですが、時間をかけて選び取られていくはずです。配送や小売などの現況下の「エッセンシャルワーク」も、今後にテクノロジーによって、代替が進んでいくことでしょう。

環境の変化とともに、価値観は変化します。どこかで「テレビゲームは時間とお金の無駄」という刷り込みをされたのか、私はコンピューターゲーム全般に対して、あまり好感を持って来ず、また同様に、将来の夢をYouTuberだと語る子供たちの話をニュースで聞くたびに、失望に似た感情を抱いてきました。しかし、最近になって「いや、eスポーツやYouTuberは現代の必然なのだ」と思うに至りました。この背景には、くどいですが「生産力としての役割からの解放」があります。大人たちに教わらずとも、子供たちは多くの大人たちよりも、社会の変化を敏感に嗅ぎ取って、こうした進路を必然として選び取っているのではないか。むしろこういう時代だからこそ、既成の文脈に縛られた大人たち(私)は、子供たちから学ぶべきなのかもしれません。

子供の頃に、スペースインベーダーやゲームウオッチにLSIゲーム、そしてファミコンといった電子ゲームが次々に登場し、生まれ育った山奥の町でも大いに流行りました。私自身は自分でプレイするよりも、飛び抜けてうまい友人が、次々に「面」をクリアしていくのを、脇で見ている方が好きでした。それから数十年を経て、プレイすることでお金を得る時代が到来した。これを産業と呼ぶべきなのか。芸能やプロスポーツ、囲碁将棋などに近いのでしょうが、それとも何かが違う。言葉を選ばなければ、完成していないというか、「閉じていない」が、近いかもしれない。あるいは、以前に書いたように、労働よりも活動に近い印象を受けます(そのスキルが「公式認定」されるようになれば、閉じてしまうかもしれませんが)。

今年は、文科省がeスポーツ大会を後援するそうです。最近までゲームは「教育に悪い」とされてきた印象があり、「思考型教育への転換が背景にあるのだろう。随分と変わったものだ」と感心して、文科省のサイトを覗いてみたら、なんのことはない、クールジャパンとか、文化の皮を被った産業振興のようです。

そして早くも賭博が活況とのことです。

いずれにしても、物品やサービスの生産だけでなく、好きや得意を貫くことに価値(感動)が生まれる。応援したい、参加したい、共有したい、といった想いが底流するクラウドファンディングと、原動力は同じなのかもしれません。こうした動きの中に、生産と消費の境界が溶け、生産から解放された世界における人の営みの萌芽を感じます。

変化こそが我々の営み

ファーストリテイリングの柳井正社長は「Change or Die」という経営方針を掲げている。日本電産の永守重信会長は「脱皮しない蛇は死ぬ」というニーチェの言葉を多用する。

変化を続けていくことは我々の営みの一部です。ドラッカー先生も「変化が常態」だと仰っていたようですが、この半世紀以上に亘る変化の少なさ、あるいは文脈の強固さが、それを忘れさせてしまったのかもしれません。そして、脱皮といえば仏陀。変化を常態として、右往左往しないことも大切でしょう。

走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。(蛇の章 一〇)

虚妄とは「ありもしないこと」ではなく、「空」と捉えるべきだと思います。目先の対象を、実体のある不変なものとして捉えることで、自縄自縛に陥りがちな我々を戒めます。この世(生)、かの世(死)を捨て去るというのは、永遠の命を得るといったファンタジーではなく、苦悩の根源である「生死」もまた仮構(概念)であると知って貪らない(思い煩わない)ということでしょうか。

脱線しました。

前回に続き、冗長な記事になってしまいました。日々のニュースを眺めていると、新旧の価値観がしのぎを削り、失うことへの不安と、手に入れることへの期待が交錯し、自分もまたその末席にいることを感じます。今は起こる事態の善悪を問うことよりも、それに臨機応変にあたることが必要なように感じます。


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