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不登校問題が家庭や個人の責任として切断されていく

ここ数年で「不登校」に関する情報はかなり増えたように思う。NOTEでも「不登校」というキーワードで検索すれば、多くの記事に出会うことができる。しかも、家庭での子どもとのかかわり方や、経験者の自立までの体験談など、そうした記事のほとんどが、実際に不登校の子どもと保護者を支援する側として「なるほど!」と勉強になるものばかりだ。

ただ、一方で、社会的にどのような対策を行えば、より広く、子どもたちの学習権を保証していけるか、というような記事があまりないなぁと、不安のようなものも感じてもいる。(まぁ、めんどくさい話なので、あまり需要がないのだろうけれど)

「教育」は、社会の責任である。言い換えれば、家庭でがんばったり、個人が過剰に学校に行っていないことへの責任を引き受けるものではない。

適切に表現できないが、つまり、僕の不安というのは「私はこうして不登校を克服しました」「私たちはこうして不登校の子どもを笑顔にしました」という、個人や家族による不登校関連記事の多さによって「過剰責任を引き受ける家庭・個人」が量産されていくのではないかという不安なのだ。そもそも出発点から「不登校は家族(個人)で何とかすべきもの」という暗黙の思考様式を、多くの人にインストールしてしまうのではないか、と。

あるいは「不登校は天才の卵だ」というような記事も読むことがあるけれど、本来は「才能があろうとなかろうと、個人が社会的に自立していくための知識・技能を身につけさせること」こそが、「義務教育」であるべきで、そこで必要なのは、特別に才能がなくても不登校から当たり前に自立していけるルートはどうしたら作れる?という課題設定のはずだろう。もう少し具体的にいえば、問われなくてはならないのは、学校ではない場所で過ごす子どもたちが社会的に自立するために、いったい何をその地域に準備しておかなくてはいけないのか。議論の焦点は本来は常にそこになければいけない、ということである。不登校問題は、家庭の育成の問題でも、その子の特性の問題でも、まして育児スキルや学習スタイルの問題でもない。また不登校の子の勉強スタイルこそが新しい社会で求められる技能に近い、という内容の記事もよく読むけれど、社会の変化に応じて、身に着けるべき新しいスキルがあるというのは、学校に行っている子どもたちとて同じことのはず。「社会の変化」と「身に着けさせるべき教育内容」はどうあるべきか、という話は、不登校と関係なく議論されるべき問題のはずである。しかし、現在は、それらが過剰に「不登校」との関わりで議論されすぎているように思える。もちろんそうした記事が次々に出てくる現状は、社会的施策のなさを考えれば、ある意味で、しょうがないとも思うが。

しかし、不登校の問題が「家庭」や「個人」の頑張りや工夫の話で終わってしまえば、「そもそも保護者や当事者が引き受けなくてもいいものを引き受けてしまっている」という最も改善しなくてはいけない問題が放置されたままになってしまう。

なんかそれは違うんじゃないかと思う。不登校の問題を過剰に「個人」や「家庭」の問題に落とし込まず、社会的な施策の不足(あるいみで政治的な問題)として問題化していくことが不登校の議論のベースにならなければ、今後も膨大な「過剰責任を引き受ける家庭・個人」が生み出されていってしまう。

貧困が個人や家庭の問題ではなく社会の在り方の問題であるのと同じように、不登校も個人や家庭の問題ではない。憲法において「教育を受ける権利」が保証されているということは、(少なくとも義務教育期間中の)子どもの教育を受ける権利の保障においては、これを「家庭の問題」に着地させない、と宣言しているということであり、僕らの社会がフォーマットとしてそのように設計されているということの裏返しなのだ。にも関わらず、これをあまりにも「個人」や「家庭」の問題として描き出すことは、不登校の問題を、社会の問題から切り離す、ある意味で切断作業に近いのではないかと僕は感じている。


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