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高校生のための人権入門(18) なぜ、人権は尊重されなければならないか

はじめに

前回人権の中身とは「安心、自信、自由」だというお話をしました。「安心」とは、「わたしはここにいていい」という思いであり、「自信」とは、「今のわたしはこれでいい」という思いであり、「自由」とは、「わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ。」という思いだとお話ししました。これを踏まえて、前回の最初に取り上げた疑問、「相手がどんな『ひどい人』で、自分や周りの人にひどい迷惑をかけ、被害を及ぼしている(ように見える)人であっても、なぜ、その人の人権は尊重しなければ(尊重されなければ)ならないのか」という疑問に、わたしなりにお答えしたいと思います。(注*)つまり、人権が無条件で尊重されなければならない、その理由はなにかということです。

いじめで、なぜ死を選ぶ子どもたちがいるのか

毎年、日本中で何人もの子どもたちが、いじめを受けて自ら死を選んでいきます。そのようなニュースを聞く度に、多くのおとなは、「なぜ、死を選んでしまうのか。死ぬ勇気があれば、なんでもできるはずだ。学校なんて行かなきゃいいじゃないか」とか、「なぜ、おとなに助けを求めなかったのか」とか思ったりします。人間は誰でも死にたくないのに、なぜ子どもたちは、自ら死を選んだのでしょうか。みなさんはどう考えますか。

わたしは、子どもたちが死を選んだのは、人が生き生きと生きていくために絶対に必要だと前回お話しした「安心、自信、自由」を、毎日、徹底して周りの子どもたちから奪われたからだと思います。学校に行けば、「お前、まだそんなことしているのか。恥ずかしくないのか。よく学校に来られるな。」などと言われ、歩いて行けば足を引っかけられ、背中をど突かれ、恥ずかしいことを無理やりやらされて、それで「安心(自分はここにいていいという思い)」を持てるでしょうか。持てるはずがありません。そしてまた、いじめる方は、例えば女の子に対して、「あんた臭いよ。」みたいなことを平気で繰り返し言ってきます。そんなことを毎日言われて、「自信(わたしはこれでいいという思い)」を持ち続けていられるでしょうか。まして、いじめを受けている子には、「(生き方や生活の仕方の)選択の自由」など、あるはずがありません。こうやって、毎日、「安心、自信、自由」という「生きるために最低限、必要なもの(=生きる力)」を執拗に傷つけられ、奪われ続けるということが、「いじめを受ける」ということなのです。毎日、繰り返しそうやって「生きる力」を奪われてしまったら、子どもに限らず、われわれおとなでも残された道は死しかなくなってしまうのではないかとわたしは思います。

人権侵害とは

人権侵害とはなんでしょうか、差別とはなんでしょうか。今まで述べてきたことを踏まえて、ここでまとめておきたいと思います。

人権侵害とは、ひと言で言ってしまえば、「自分と違う」相手に向かって、「あなたはダメです(迷惑だから、いなくなってほしい)」と言葉や態度で示すことです。つまり、相手が「そこにいる意味(=生きている意味)を否定することです。この説明の中では、「自分と違う」(自分と違う考え方、あり方、生き方をしている)というところがきわめて重要です。人権侵害や差別の根底には、相手が「わたしと違う」、相手が「わたしと違う」ことを、わたしの目の前でしていることが、許せない、がまんならない、だから近くにいてほしくない、だから排除する、という気持ちが必ずあります。)

しかし、考えてみてください。相手がどのような人であっても、わたしにとっては、どんなひどい、ダメな、迷惑な人であっても、だからといって、その人の「そこにいる意味(=生きている意味)」を否定していいなどどいう人間は、どう考えてもこの世に一人もいません。人権尊重が無条件であるとは、こういうことだとわたしは思います。

人権を尊重するとは

人権を尊重するとは、具体的にはその人の「安心、自身、自由」を保障することであり、自分と「まったく違う」考え方、あり方、生き方をしている相手でも、自分と「まったく同じ」価値、意味を持つ存在として認めることです。前回、「自信」のところで書いた言い方で表せば、「今のわたしはこれでいい」そして「今のあなたはそれでいい」ということになります。英語で言えば、”I'm all right. You are all right.”とか、”I'm enough. You are enough.”ということになります(注**)。たとえ、自分がどんな人間であれ、たとえ、相手がどんな人間であれ、その人の「安心、自信、自由」を傷つけたり、奪ったりしていいということはないのです。また、自分の「安心、自信、自由」は、自分にとってなによりも大切なものであり、どのような理由があっても、それを傷つけられてがまんする必要はありませんし、がまんしてはいけません。つらかったら、「つらい、助けて」と叫ぶべきなのです。言わなければ、口に出さなければ、人にはわからないのです。口に出せば、助けを求めれば、必ずあなたの周りには、その声を聞いて耳を傾けてくれる人がいます。その人に自分の声が届くまで、あきらめないでください。必ず、その人はいます

個性の尊重や多様性の尊重では、人権は守れない

”I'm all right. You are all right.”とか書くと、「なんだ、お互いの『個性』を尊重しようということでしょ」とか、「要するに、『多様性の尊重』ということでしょ。」とか言われそうです。しかし、わたしがここで言いたいことは、それらとはまったく違います。どう違うかは、別の機会にお話したいと思いますが、ひと言だけ申し上げておくなら、「個性の尊重」とか、「多様性の尊重」とかいう考え方では、現実の生活の中で、決して人権は守れないからです。

(注*)
人権について何か語ろうとする者は、「人権とはなにか」、「人権は、なぜ尊重されなければならないのか」、この二つの問いに正面から答えなければ、人権について何かを語る資格はないとわたしは思います。ところが、実際にはこの二つの問いに何も答えずに、人権とか人権尊重について語られている場合ががほとんどです。(と言うよりは、正直なところ、わたしは今まで、本気でこの二つの問いに答えようとした論に一度も出会ったことがありません。だから、人権の話はタテマエ論だとか、理想論だとか、空論だとか言われるのでしょう。)だからこそ、法的、歴史的、哲学的予備知識ぬきで、みなさんとわたしが、自分の今までの人生での経験から、この二つの問いに答えることができたら、という思いから、この「高校生のための人権入門」を書いています。そんな意味で、今回はわたしにとっては一番重要な回なのです。

(注**)
この”I'm enough.”という言葉は、TED talkの中のBrene Brown: The power of vulnerability(ブレネー・ブラウン:傷つく心の力)の中からの引用です。五年ほど前に初めてこのトークを観て(聴いて)、本当に心を打たれたことを覚えています。今まで、このnoteで20回近く「高校生のための人権入門」という題名で人権問題について書いてきましたが、わたしの文章のさまざまなところにこのトークの影響が出ていると思います。感謝です。このトークはありがたいことに、日本語字幕付きでも観ることができます。お薦めです。


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