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高校生のための人権入門(25) 人権と生きることの意味

はじめに

第17回「人権の中身『安心、自信、自由』」の中で、自分の中の「安心、自信、自由」を失わないことが、生き生きと生きていくためにはどうしても必要であり、「安心、自信、自由」がなければ、人は生きていてうれしくないのだということをお話ししました。逆に言えば、「安心、自信、自由」が持てていれば、人は生き生きと生きられる、生きていてうれしいのだということです。生きていてうれしいとは、「生きている意味」を感じられているということです。ここで一番最初にお話した「この生になんの意味があるか」という問い(第1回「はじめに」)に答えることができそうです。

わたしが生きていることの意味

結論から最初に言ってしまえば、「人間って何のために生きているんだろう」、「この生になんの意味があるんだろう」という問いに対して、人生には「こうこう、こういう意味があるのだ」と答えることはできません。例えば、「神の栄光を表すためだ」とか、「自己実現のためだ」というような答えを出しても、そうだと思えない人には何の意味も持たないからです。すべての人に納得できるような答えはありません。

しかし、だからと言って、人生には意味はないのだと結論づけることはできません。先にも述べた通り、生き生きと人生を生きている人、生きていてうれしいと感じて生きている人は、自分の人生を無意味だとは思っていません。つまり、なんらかの意味があると無意識にでも感じることができているからこそ、生き生きと生きていられるし、生きていてうれしいのです。ただ、そういう人に、あなたが感じているはずの「人生の意味」、生きていることの「うれしさの中身、理由」を説明してくださいと言っても、おそらくほとんどの人は説明できないでしょう。そもそも、そのような人は自分の人生の意味を、特別に振り返って考える必要がないからです。また、そういう人がなんとか無理をして、自分が感じている「人生の意味、生きていることのうれしさの中身、理由」を説明したとしても、他の人がその説明を聞いて、「わたしもそれが人生の意味だ」と思うとは限りません。(もちろん、共感してそう思う人もいますが。)つまり、人生の意味は現実に生きていくことの中で、生きられる、感じられるものであって、言葉で説明しても意味のないものです。(言葉でそれを人に実感させるには、論理的言葉ではなくて、「物語」(小説や自伝や伝記など)の言葉を使う必要があります。)

人権とは、「生きていることそのもの」

差別や人権侵害は、相手の「安心、自信、自由」、つまりその人の「生きる力」を傷つけ、奪うことによって、そのような「人生の意味を感じながら生きる可能性」を奪ってしまうのです。差別や人権侵害とは、相手の生きる力(「安心・自信・自由」)を否定すること(「あなたはダメです。」と言うこと)です(第18回「なぜ、人権は尊重されなければならないか」参照)。そう考えれば、人権とは、「生きていることそのもの」、「人が感じている生きていることの意味そのもの」だと言うことができそうです。そうだとすれば、最大の人権侵害とは、当然のことながら相手の命を奪うこと(殺人、テロ、戦争等)だということになります。

なぜ人を殺してはいけないのか

「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問を一度も抱いたことのない人は、あまりいないかもしれません。また、人がそのような疑問を発するのに出くわしたことのない人もあまりいないかもしれません。この疑問が大きな意味を持つように思えるのは、この疑問については、「誰もが納得できる答えはないのではないか」という予感を多くの人が持っているからです。もし、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する、誰もが納得できる答えがないのであれば、法律や道徳までもが怪しくなってきます。われわれが正しいものとして信じている法律や道徳の根拠そのものが怪しいものになってしまいます。最大の人権侵害は相手の命を奪うこと(殺人)であるにも関わらず、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて、すべての人が納得できる正しい答えがないのであれば、人権を侵害してはいけない理由もあやしくなってしまいます

生きることの意味が、生き生きと生きている人、生きていてうれしい人にだけ、はっきりと感じられる(つまり、疑いようもなく、その意味は存在する)ように、「(人である自分を含めて)人を殺してはならない」ということの理由(根拠)は、「人を殺したくない」、「人を殺すことなんてできない」、「生きていたい(死にたくない)」と思う人の中に、疑いようもなくはっきりと存在しています。しかし、そのことは怒りや憎しみ、恨みや絶望などによって、人や自分を殺してしまう人が、常に存在することと矛盾しません。

「人を殺してはならない」という戒律

もしも、人というものが神によってつくられたものであれば、そして、神が「人を殺すことは悪であって、絶対に起きてはならないことだ」と考えていたのなら、人は殺人をしない(できない)ものとしてつくられたはずです。しかし、実際には人は人を殺すことがあります。ということは、神は人を場合によっては人を殺すことができるものとしてつくったということになります。旧約聖書の中で、カインは、自分の捧げ物よりも弟のアベルの捧げ物を喜ぶ神を見て、嫉妬のあまりアベルを殺してしまいます。一方で、神はモーセに与えた十戒の中に、「人を殺してはならない」という戒律を入れます。人は、人を殺すことができる存在であるからこそ、神は「人を殺してはならない」という戒律を与える必要があったのです。戒律は破ることができるものであるからこそ、それを戒める戒律としての意味を持ちます。

第二次世界大戦中、ナチスからの逃亡中にピレネーの山中で服毒自殺を遂げたとされる思想家、ヴァルター・ベンヤミンは、こう言っています。

「この戒律(注「殺してはならない」とう戒律)は、神が行為の生起『以前にある』ように、行為の以前にある。」戒律は、「行為の物差しではない。戒律からは、行為への判決は出てこないのだ。」(ベンヤミン『暴力批判論』岩波文庫、60〜61ページ、野村修 訳)

人は、「安心、自信、自由」をしっかり持てないと生き生きと生きていけない、「安心、自信、自由」がいわば人権の中身だということをお話しました。(第18回「なぜ、人権は尊重されなければならないか」参照)人が生き生きと生きていくために、どうしても必要な「自由」の中に、人(または、自分)を殺すこともできるということが含まれているのです。さらに言えば、その「自由」の中に、人の人権を侵害する、つまり、相手の「安心、自信、自由」を奪う「自由」も含まれているということになります。人は、相手の(または自分の)「生きる意味」を否定することもできるということです。逆に考えれば、それができなければ、人は自由ではないということになるからです。こう考えてくれば、「生きている」ということは、つまり「自由である」ことと同じことです

そうすると、「人権は尊重されなければならない」とか、「人権侵害は許されない」とか、「人を殺してはならない」とか、「人生には意味がある」とかいうことを、すべての人に納得のいくように論理的に説明することは「できない」ということが少しずつ明らかになってきます。それは、人が生きているからであり、生きているということは、すなわち「自由に」生きているということであり、「自由に」生きているものに対しては、「こうでなければならない」、「こうする(しない)ことには、ゆるぎない理由(根拠)がある」ということは、そもそも成り立たないということなのです。

「生きる力=自由」が、相手を滅ぼしたり、自分を滅ぼしたりしてしまうことがある

「生きる」ということは、「よりよく(少なくとも、自分にとって「よりよく」)生きよう」とすることと同じことです。だから、子どもは放っておいても成長するし、おとなを含めて、多くの場合、人は今のままであり続けることに耐えられません。しかし、「今のままであることに耐えられなくなった」ことが、結果として相手の人権(「安心、自信、自由」)を傷つけてしまったり(パワーハラスメントなど)、自分の人権(「安心、自信、自由」)を傷つけてしまったり(自責、うつ状態、自殺等)することを引き起こすのです。「今のままであることに耐えられない」という思い、いわば「生きていること=自由であること」が、場合によっては相手を滅ぼしたり、自分を滅ぼしたりしてしまうのです。力は力である限り、ゼロ(何の影響も及ばさないもの)ではありえません。自分や人の力を増大させることができない場合は、その力は自分や人を滅ぼす方に働いてしまうのです。言い換えれば、自分や人の力を増大させる(今よりは、よりよい生き方をしよう(させよう))とするのが、本来、人が持つ力の性質でありながら、それができない場合は、自分の持つ力が、自分や人を生きづらい方向に追い込んでしまうということが起きるのです。(第21回「力の関係としての人間関係」もご覧ください)

「何も意欲しないよりは、虚無を意欲することを望む」

こういうことを書いていると、わたしはどうしても1900年に亡くなったドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェを思い出さずにはいられません。

「人間の意志は一つの目標を必要とするものだということーー何も意欲しないよりは、虚無を意欲することを望むものだということである」(『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫、186ページ、中山 元 訳)

人は、今のままであることに耐えられないために、時によっては、相手や自分を滅ぼすことさえ結果的に選んでしまうことがあるのです。この場合、人の持っている力は「攻撃」、「破壊的な力」として現れます。そして、おそらく人間が持つ力には二種類はないので、このような「攻撃」となって現れる力も、弱い立場の人を支えようとして現われる「保護」や「支援」の力も、実は同じものです。だからこそ、人は相手のために「正しい」こと(「指導」や「保護」など)をしているつもりで、相手の「安心、自信、自由」を奪うということを平気で行うことができるのです。子どもを、エンパワメントする力も、コントロールする力も、目指すものが違うだけで、力としてはたぶんまったく同じものです。(第12回「児童虐待について(子どもの人権(1))」をご覧ください

第1回「はじめに」でも書きましたが、人が生きていることの意味や価値は、生きていることの中にしかありません。そのことから考えれば、人はどんな場合にも「生き延びること」をもっとも重要なこととして求めるべきだということが、論理的には出てきます。たとえば、「いじめ」にあった時、「逃げていい」というのはそういう意味です。ただ、しかし、政治などの重要な局面において、「生き延びること」よりも、自分が信じる「正しさ」を貫くことを重要と考える考え方もあります。そういう考え方に対して、人は「生き延びること」をもっとも重要なこととすべきだと批判することはできませんし、そのような生き方を否定することもできません。そういう「生き方」を選ぶ「自由」を、人は持っているからです。

人権を尊重するとは、「生きていることの意味を感じながら生きること」を保障すること

「人権とは、幸せに生きる権利だ」という説明があるということを、第2回「人権とはなにか」でお話ししましたが、幸せに生きるとは、「安心、自信、自由」を感じて生きること、生き生きと生きること、生きていてうれしいこと、言い換えれば、「生きている意味を感じながら生きること」だということになります。

人権を尊重するとは、自分と他の人との「安心、自信、自由」を守ること、言い換えれば、その人が自分が生きていることの意味を感じながら生きることを保障することになります。

「人権」とは、わたしの、あなたの「生きている意味」です。その根底には、実際にわたしが、あなたが今、ここに「生きている」ということがあります。大切なことは、あなたとわたしが、生き生きと生きること、そして、生きていてうれしいと感じながら生きることであり、そのような人と人の関係をつくりあげることです。人と人の関係は、一対一の関係から、家族、友人、教室、職場、隣近所、地域、国、国際間の関係まで、さまざまなレベルがあります。それぞれの中で、すべての人が生き生きと生きられる関係をつくることが、人権の尊重のためにもっとも必要なことになります

(「高校生のための人権入門」の本編はこれで終わりますが、「補足」として、あと2回ほど続きます。)

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