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「しなかった」と「できなかった」の関係 ~パワーハラスメントについて考える(その2)~

あなたが誰かに向かって、あれを「しなかったのはまずかったから、今度からするようにしてください」と言った時、その人が、「すみませんでした」と謝らずに、「それは、こうこうだったから、(あえて)しなかったんです(だから、わたしは悪くありません)」と言い返してきたら、あなたはどう感じますか。多くの人は、たぶん、ムッとして、「そんなのは言い訳だ」と思うのではないでしょうか。

やろうと思えば「できた」が、あえて「しなかった」という説明

しかし、逆の立場になった時、つまり誰かからなにかを「しなかった」ことで責められた時、われわれは、「やろうと思えば『できた』けれど、理由があって、あえて『しなかった』のだ」と説明しがちです。自分自身で、これは言い訳だ(確かに、そうしておけばよかった)と思いながら、そう説明する時もありますし、確かにあの時、わたしはしない方がいいと思ったから、あえてしなかったのだと思いながら、そう説明することもあります。しかし、どちらの場合も、聞いている方には、ほぼ間違いなく言い訳に聞こえます

トラブルにしないためには(その1)

誰かに、あれを「しなかったのはまずいから、今度からするようにしてください」と言われた場合、どうすれば良いのかは誰もが経験的に知っています。一番良いのは、まず最初に、「すいません」とか、「ごめんなさい」と謝ってしまうことです。自分がそれを「しなかった」ことで、相手に不安や不快を感じさせたのですから、そのことに限って考えれば、一応、それについては謝る理由はあるのです。そして、自分も「そうしておけばよかった」と思うのであれば、その後、「わかりました。今度はそうします」とつけ加えれば、この話はそれで終わりです。こうすれば、トラブルは発生しません。

トラブルにしないためには(その2)

しかし、冷静に考えてみても、やはり相手の言うことが間違っているということもあるでしょう。そんな場合は、取りあえず、相手に不安や不快を感じさせたことについては、「ごめんなさい」と謝ります。そして、できれば少し時間を置いてから、それを「した(もしくは、これから「する」)」場合に予想される問題点を、「こうなった場合はどうすればいいですか」という形で、相手と話し合ってみるのがよいと思います。

その話し合いの結果が、どうなるかは、話し合ってみなければわかりません。結局、相手の言うとおり「する」ことになるかもしれませんし、わたしの考えが認められて「しない」ことになるかもしれませんし、その間を取った結論(「して」みて、問題が起きた場合はこう対応する等)になるかもしれません。

トラブルはここから生まれる

しかし、トラブルにしないためにはそうするのが良いと、経験的にわかっていても、なかなか実際には、最初に「すみません」とか「ごめんなさい」とは謝れません。そして、多くの場合、「なぜ、(あえて)しなかったのか」ということを延々と説明したり、逆に「なぜ、今ごろになってそんなことを言うんですか」と相手を責めたりする方向に話を持っていったりしてしまいます。このようなやり取りが、夫婦の間で行われた時、夫婦げんかが勃発し、職場では、相手と自分の「心の溝」を一気に深くしていきます。(「わたしはすぐに謝るし、言い訳はしない」と思う方もいらっしゃるでしょう。すばらしいと思います。でも、わたしを含めてそうでない人が圧倒的に多いという前提で、この文章は書いています。)

なぜ、「ごめんなさい」と言えないか

ここまでわたしは、自分の家庭での配偶者とのやり取りや、職場でのやり取りを思い浮かべながら、書いてきました。そして、思います。あれを「しなかったのはまずかったから、今度からするようにしてください」と言われた時、相手の言うことが一理あると思っている時でさえ、なぜ、最初に、「ごめんなさい」と言うのがこんなにむずかしいのだろうか、と。

この理由の説明は、いろいろできそうですが、わたしは「自己愛」という考え方で、一般的に説明できると思います。

失敗したと自分で思いながらも、「ごめんさい」とか「悪かった」と言えないのは、自分の失敗や間違いを認めることが、自分への自己愛を傷つけるからです。自己愛(ナルシシズム)は、自分の中の「生きる力」と切り離せません。自己愛と生きる力とは一体だと言った方が実情に近いかもしれません。(わたしの考える「自己愛」については、くわしくは「『誰もわたしのことをわかってくれない』 わたしの生きづらさはどのようにして生まれるか」をご覧ください。)

わたしが愛しているのは「鏡像のわたし」

ただ、そのような自己愛の中で、わたしが愛している「わたし」は、実はわたしの「鏡像(鏡に映った「わたし」、わたしの中にあるイメージとしての「わたし」)」です。「鏡像のわたし」は当然のことながら、わたしとは微妙に違っています。この「違い」を通常、わたしは意識しません。意識したら「自己愛」は成立しません。しかし、あれを「しなかったのはまずいから、今度からしておいてね」と言われた時に、この違いがむき出しになってわたしに迫ってきます。わたしはそれを「しなかった」。確かにそれは事実です。しかし、「鏡像のわたし(わたしが愛している理想のわたし)」は、そんなことを言われるはずはないのです。言われてはならないのです。「鏡像のわたし」が、現実のわたしであれば、わたしは人に言われなくても自分で気づいてそれを「していた」はずなのです。ここでわたしは、自分にどう向かいあうかの「選択」を突きつけられるのです。

この場合の選択肢は二つです。さまざまな言い訳をして、「鏡像のわたし」を守り、自己愛を保とうとするか、「すみません」と謝って、「鏡像のわたし」と現実のわたしの「違い(ギャップ)」を認めて、「鏡像のわたし」がわたしでないことを認めるかのどちらかです。実際には、わたしを含めて多くの人が、言い訳をして「鏡像のわたし」を守り、自己愛を保とうとする道を選んでしまいます。自己愛を傷つけることは、自分の生きる力を傷つけることにほぼ等しいからです。

「しなかった」と「できなかった」は同じこと

ここで話が最初のところに戻ります。誰かから「しなかった」ことで責められた時、われわれが、「やろうと思えば『できた』けれど、理由があって、あえて『しなかった』のだ」と説明しがちなのは、「鏡像のわたし」を守るため,そこに成り立っている自己愛を守るためです

わたしが、その時、「しなかった」理由はいろいろあるでしょう。単に忘れていた、気づかなかったのかもしれませんし、めんどうだからやめてしまったのかもしれません。まあ、なんとかなるさと思ったのかもしれません。そこにどんな理由があろうととも、事実としてわたしはそれを「しなかった」のです。ただ、その理由がなんであれ、第三者の目で自分を突き放して、起きたことだけを見れば、それを「しなかった」ことは、することが「できなかった」ということと同じことです。なぜなら、それを「した方がよい」という判断や、それを「しよう」とする決断が、その時のわたしには「できなかった」ということなのですから。

現実のわたしはそれを「しなかったし、できなかった」。これが現に起きたことです。しかし、それを認めたくないために、「できたけど、しなかった」というふうに自分を理解して、「鏡像のわたし」(「できる」わたし、自己愛の対象)を守り抜こうとするのです

このようなことを書くと、「いや、それは違う。わたしはあの時、こうこうの理由で、『しない(方がよい)』という判断、決断をしたのだ。今でもその判断は間違っていなかったと思う。なぜなら…」と言い出す人が出てくるでしょう。しかし、まさにそれは今まで書いてきた「しなかった=できなかった」ことへの決まり切った「言い訳」なのです。そう主張することによって、あなたは自分への「自己愛」を、なんとか守ろうとしているのです

終わりに

長々とこのようなことを書いてきたのは、パワーハラスメントの始まりにこのような、自己愛から生まれる「言い訳」があるのではないか。そして、その場合、相手が「しない」のではなく、「できない」のだと考えることが、パワーハラスメントを防ぐことにつながるのではないかと思うからです。次回、そのようなことを書いてみたいと思います。

補足

「鏡像」とか、「鏡像としてのわたし」という言葉は、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの言葉を借りています。もちろんラカンが使っている本来の意味とは違っています。その点はお許しください。ラカンのことは「『集団ストーカー』現象はどのようにして起きるか(その2)」でちょこっと書きました。興味のある方は、そちらもご覧ください。


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