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もつれた階層 -- 物質的恍惚への助走


 たまには肩の力を抜いて文章を書いてみたいと思う。

 論理が硬質化するほど、それは人間の生々しさから乖離していく。硬質な論理というのは疎外あるいは物象化の表現であって、それなしで済むのであれば、ないほうがよいものだと思う。

 もちろんこれは逆説である。直接的な共同性をもはや立ち上げられない我々は、媒介的な共同性のもとで生きるしかない。言語、貨幣、権力、理念といったメディアは、諸人間の外部に弾き出されることで機能する。しかし、弾き出されたメディアの群れは、具体的な諸人間から独立したメディアの領域を形成し、諸人間を規制するようになる。それこそが「社会」と呼ばれている物象 = 現象である。

 媒介的な共同性のなかで生きているからには、我々には硬質の論理が必要である。ただし、直接的な共同性が存立する場合はその限りではない。マルクスや見田宗介は、硬質の論理を生み出すことに人生を賭けた。彼らとは対照的に、宮沢賢治やル・クレジオは、直接的な共同性を呼び起こすことに人生を賭けたのだと思う。


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 「もつれた階層」というアイデアは、ダグラス・ホフスタッターが提唱したものだったはずだ。

命題A: 命題Bはである。
命題B: 命題Aはである。

 命題Aは、命題Bについて述べている。つまり、命題Aは命題Bよりも階層が高い。しかし同時に、命題Bは、命題Aについて述べている。つまり、命題Bは命題Aよりも階層が高い。お気づきの通り、「もつれた階層」の出現である。

 ここでは循環参照が働いている。それも、自己破壊的な循環参照である。まず命題Aが真だとすれば、命題Bで規定されている「命題Aは偽である」ことと矛盾する。一方、命題Aが偽だとすれば、命題Bも偽であることになるが、すると命題Aが真だということになってしまう。すなわち、命題Aと命題Bは、それぞれ真にも偽にも安定できない

 「もつれた階層」による自己破壊を解消するにはどうしたら良いか。

 ひとつは、循環参照そのものを解消することである。命題Bを、命題Aについては言及しない任意の文に書き換えれば良い。

命題A: 命題Bはである。
命題B: 〔命題Aについては言及しない任意の文〕

 こうして、2つの命題から構成される論理世界に厳格な階層秩序がもたらされた。命題Bよりも上位に命題Aが君臨しており、命題Aの地位は何者にも脅かされることがない。ここで命題Aは、この論理世界における絶対者である。まるで「最高善」を措定したプラトンのような、あるいは「唯一神」を措定したキリスト教のような方法である。

 もうひとつの方法として、形式における循環構造は維持したまま、内容における循環構造を無害化することができる。以下のようにすれば良い。

命題A: 命題Bはである。
命題B: 命題Aはである。

 命題Aを真と仮定すると、命題Bが真となり、命題Aが真であることが確認される。逆に、命題Aを偽と仮定すると、命題Bが偽となり、命題Aが偽であることが確認される。

 この論理世界では、たしかに循環参照による自己破壊が防がれている。そして、命題Aと命題Bは、それぞれ真にも偽にも安定する。ここに生じているのは、どちらも〈不可能〉というパラドクスではなく、どちらも〈可能〉というパラドクスである。このように無害化された循環参照では、もはや命題の階層はないに等しい。

 ここに顔を覗かせるのは、あらゆる状態が肯定される世界、階層以前の世界である。すべてが内包される平面、存在の一義性。これこそ、スピノザやドゥルーズ、ル・クレジオの方法に他ならない。


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 ここではゲーデルの不完全性定理については詳述しない。ゲーデルは、形式的な数論体系の内部にメタ数論的な意味をもつ命題を作り出し、メタ数論であると同時に数論でもあるという「もつれた階層」を生成した。そのアイデアが不完全性定理の核となっている。

 ところで、ゲーデルが数論のなかに生成した「もつれた階層」とまったく同型の構造が、人間の意識にも生成されている。数論体系と人間意識の同型性を最初に指摘したのは、前述したホフスタッターである。

 人間は、外部の対象を意識できるだけでなく、自己意識を意識することができる。意識についての意識は、メタ意識というべきものだが、それもやはり意識の階層からは脱出できない。ここに、メタ意識からメタ・メタ意識へと無限に上向する自己言及構造と、永遠に基底意識から脱出できない平面構造が併存している。

 これこそが、デカルトが迷い込んだ空中楼閣である。無限上向構造のなかではあらゆる対象が破壊されてしまうため、デカルトは "cogito" という基底意識の平面にすがるほかなかった。人間意識は、ほとんど無際限の対象化能力をもつがゆえに、自己言及のバベルによって容易に自壊する。

 しかしそれは、あらゆる人間意識に普遍的な構造ではない。それは、階層秩序の世界が崩壊したあとの、もつれた階層の世界に生じる人間意識である。これを時代精神として片づけることはできないが、中世より近代、近代より後期近代に、空中楼閣をさまよう人間が多いことは事実だろう。

 このような人間意識の構造は、社会の構造と不可分である。たとえばリースマンは、変化の激しい社会に適応した「他人指向型」という人間類型が拡大していることを指摘した。変化の激しい社会では、固定的な規範を遵守する人間は置いておかれてしまうため、たえず他者をモニタリングして他者と調子を合わせることが適応戦略となる。

 しかし、その社会変化を生みだしているのは、他でもない「他人指向型」人間なのである。自己は行為を調整するために他者の行為をモニタリングするが、その他者の行為は、自己の行為のモニタリングを経て生みだされている。自己の行為が他者の行為を変化させ、それによって自己の行為が変化するという無限循環のなかで、社会変化は加速していく。

 そもそも資本制社会が、支配と従属の「もつれた階層」であることを見抜いていたのはマルクスだった。他者に対する支配力が〈貨幣〉へと物象化することで、あらゆる人間がすべての他者を支配し、あらゆる人間がすべての他者に従属する。この矛盾は、貨幣の無限運動のなかでうやむやにされてしまい、あたかもすべての人間が対等な主体であるかのような近代社会が存立するのである。

 無限循環運動としての社会が、無限循環運動としての意識を生みだすときには、自己意識の二重化が触媒となる。つまり、監視する自我と監視される自我の分離であり、それはまさしくフーコーが提示した "sujet" に他ならない。監視する自我は、メタ自我かつ自我という「もつれた階層」であり、自己破壊的な無限循環を潜在させているのである。


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 「もつれた階層」を逃れる方法は2つある。

 まず、自己言及を慎重に排除して、堅固な階層秩序のもとに回帰する方法がある。そのためには、絶対的な公理を措定し、それを自明化して内部に留まることを要請される。しかし、懐疑と相対化の味を覚えてしまった人間は、もはや公理系の「聖なる天蓋」に帰ることを許されない。

 そのような人間に残された道こそ、階層秩序そのものを無化してしまう方法、すなわちすべてが内包され肯定される平面へと回帰する方法である。スピノザが〈神 = 自然〉と表現し、ドゥルーズが〈内在平面〉と表現し、宮沢賢治が〈ひかりの微塵〉と表現し、ル・クレジオが〈物質的恍惚〉と表現した、世界以前の世界へと身を投じること。

 そして、それを共同性の世界へと解放すること。

 私は、我々は、エクリチュールを諦めるわけにはいかないのだ。




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