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自分の思考リフレクションのススメ

こんにちは、hiroです。

この文章は今から5年程前、まだ学生だった頃に勢いでSNSに書いたものです。自分自身の思考の記録のために、修正したい気持ちを抑えて、最小限の誤字脱字だけ直して再掲します。

 大阪に来て10年ちょっと。特に後半は学生と言えるほど勉強もせず、フリーターと言えるほど働かず、何をしているのか自分でも分からないぐらい堕落した日々を送ってきた。何のために大学行ってんの?と聞かれても、よく分からないとしか言いようがない。何の勉強してんの?と聞かれても、それもやっぱりよく分からない。要は、何をしているか、自分でもよく分かっていない。そもそも、学校卒業するというだけの不純な動機で大学へ来たので、社会のお役にたてるような明確な目的も、もちろんない。というか、昔から目的とか目標とか設定しないタイプ。そんな自分が、社会的意義も目的もなくダラダラ過ごした10年を振り返っても仕方ないのだが、ここにきて自分にとって大学に行った意味は何なのかだけはものすごく自覚してきたので書いておこうと思う。(すぐ忘れるから。)
 
 それは端的に「圧倒的な天才がいることが分かった」ということである。自分が天才になったとか、天才と知り合いになったとかそういうことではない。大阪に来て、大学に行き、大学院に行き、そこで初めてこの世に天才がいることを知った。これは高校をやめてフリーターをしながら地元にいたら絶対に知り得なかった世界であると断言できる。地元にも勉強ができる人はたくさんいたけど、こいつすげーっていう天才はいなかった。「こんな天才がいるなら、知の世界があるなら、世の中どうにかなるよね」って思えるぐらいの天才がいる世界を知った、これはでかい。だって、それは今後困った時に参照できる世界があるということだから。自分には考えられないことを考えてくれる天才がいるということだから。(圧倒的な天才に対する感覚は、自然に対する崇高に近い感じ。)
 
 地元でなんとなく過ごしていた時に知らなかった世界が今はある。目的もなく不純な動機で来た大阪に、来た意味はあった。それは生まれ変わっても迷いなく選択したであろうぐらいにはでかい意味だと思う。この自覚を、自己正当化だろうと言われればそうとしか言えない。学歴偏重と言われればそうなるだろう。子どもたちに薦めるかと言われれば、たぶん薦めない。それでも、知の世界が自分にとって魅力的なのだということが分かった。

私は中学校で不登校になり、高校に進学したものの中退し、フリーターをしていました(これについては、いずれ教育的な観点から書いてみようと思いますので、詳細は省きます)。そんな私が、半ば勢いで地方から大阪の大学に進学し、大学院にまで行って得たたった1つの結論がこれです。

知とは得た知識を自分自身で思考し、考えを広げ、深めることである

これを知ったことが、私の人生を変えました。

思考するとは世界を広げることである

思考は誰にでもできます。ただし、その方法にはポイントがあります。それについては、またいずれゆっくり書いていきたいと思います。まずはみなさんも自分の思考リフレクションで新たな気付きを得て下さい。


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