見出し画像

よみやすい文章との奇跡の出会い

同時期に出会った2冊の本。一方はひたすら読みにくく、一方はとことん読みやすい――なぜ、このような違いが生まれるのか。比較することで、見えてくることがある。

なーんて文章は読みにくく、悪い文章のいい見本です。

「あんたはその2冊の本に何か感慨深さを覚えいてて、じっと見つめて思うところもあるだろうけど、こっちはそんなの知らないよ!」ってなもんです。かっこつけてて、自分に酔っていて、いきなり読み手の気持ちが離れてしまいます。しかも、自分自身は得たのであろう結論については欠片も示さず、もったいぶっている。今風に言えば「マウント」ですよ。こういう人との付き合いは、めんどくさい。めんどくさいー!

という話の続きです。今回は逆に"読みやすい本"について考えます。

押し入れで眠り続けたドラえもん?

狭い狭い我が家は自室の押し入れの中に隠された本棚があるのですが、普段は目につかないその暗黒書架に未読の本を見つけたのです。

タイトルは『西暦3000年の人類 輝かしき宇宙コンピュータ文明への最終選択』、アイザック・アシモフとフランク・ホワイトによる共著(林陽訳)です。帯には「資本主義大消失!その後の"新地球経済"とは!?」と書かれており、いかにも「今、読まねば!」的な本なのですが……本書が書かれたのは1991年。日本での刊行も1994年で、もう30年も前のことになります。

いつか読もうと思いつつ、帯に書かれた"煽り"に気付かないまま寝かせてしまっていたというわけです。しかし今回、偶然手に取りページをパラパラとめくってみたところ、とても読みやすく、わかりやすい! 誰だ、この本をこんなところに隠したのは!(自分です)

学者はいわば勉強オタク

前回触れた"よみにくいアニメ本"は、ある意味(蔑称としての)オタク的な文章で書かれていたと思います。ただし「アニメの話題だからオタク的」というわけではありません。この場合の「オタク的」とは、あるコミュニティ内側での"競争意識"の発露が、その外側にいる人間からは奇異に見え、反感を招きやすいという意味です。

学者はいわば「勉強オタク」であり、文筆家も「高級文章オタク」のようになりがちです。それぞれが住んでいる世界において、他の住民の視線を気にして「みっともないものは見せられない」と思ってしまうともう閉鎖空間からは出られません。それが本来のオタクであり、忌避されるべき虚栄心モンスターです。アニメが好きとか、ゲームが好きとか、そういう表面的なことで、ひとをオタク呼ばわりするのは本当にやめていただきたい。

ただ、アイザック・アシモフも科学者です。日本においてアシモフは主にSF作家として知られていますが、かつてボストン大学の医学部で生化学の教授を務め、多くの科学解説書も著してきました。共著者のフランク・ホワイトも、プリンストン宇宙研究所の主任研究員(当時)です。本書は"学者的な文章"になってもおかしくないのですが、アシモフが持つ作家性のおかげか、そうはなっていません。

物語の複雑化に対する期待の反作用

世間一般では今、「最後のドンデン返し」がある意外性の強い結末に至る物語が高く評価される傾向があります。物語への複雑化の期待は高まるばかりで、「シンプルにおもしろい」という評価を聞く機会はかなり少なくなっているように思えます。あらゆる作品が「ミステリ化」することを求められていると言っても過言ではないでしょう。

「最後の最後に驚かせてやろう」という気持ちは、何かを伝えたいという気持ちを押しつぶし、結果的に評価されることへの期待を膨らませます。こういう傾向は、受け手だけではなく、何かを表現する人々全般にも影響します。特にアマチュア作家には、より顕著に現れることでしょう。

とはいえ。

求められる傾向にあるのですから、それに逆らっても仕方ありません。だったら逆に、書きたいものは「意地でも絶対に何がなんでも決して、最後まで真犯人がわからないミステリのようなもの」だと仮定してみましょう。そういうのを書いてはいけない、なんてわけはありませんからね。

大切なのは、「最後まで明かせないことがある」と意識することと、それによって「どうやって興味をつないでいくか」を考えることでしょう。

そして、そういうところにこそアシモフのアドバンテージがあるのです。なぜなら、アシモフにはミステリ作家としての側面もあり、彼のミステリ作品は高く評価されてきました。そのことに、アシモフが書く文章の読みやすさのヒントがあるように思えます。

読みやすさの分析は難しい

普段、読みやすい文章を読んで「なぜ読みやすいか」なんて考えることはありません。今回『西暦3000年の人類』の読みやすさを探ることにも困難がありました。だって読んでいるうちに、ただ進んでいってしまうのです。つまずくところもなく。悪いところは目立ち見つけやすいけど、良いところは見逃しやすいのです。

主観で見ていてもダメそうなので、視野を広げてみましょう。

本書全体を俯瞰すると、その構成は、冒頭から200ページ以上かけて現代(といっても1990年頃まで)に至る人類の歴史を語り、一番読みたい"未来の話"の部分は終盤の50ページ程度しかありません。しかも、"現代に至る人類の歴史"は「宇宙の誕生」や「人類の誕生」に触れたうえで、紀元前8000年ごろから約10000年ぶんの人類の歩みが語られます。扱っている内容で言えば、"世界史の教科書"のようなものです。

本書の構成は、おいしいところが最後にとっておかれているという意味でミステリによく似ています。事件の詳細を振り返る部分が200ページ、真犯人の動機や犯行の手口が最後の50ページで明らかになるような構成ですからね。ミステリは、「真犯人は誰だ?」ということ以外の"前座"の部分に、読者の興味を引く要素を入れていかなければ読んでもらえません。

つまり本書は、人類の未来を語るという結末のために、人類の過去の歴史全体を"前座"として扱い、その前座である"世界史の教科書"的な部分を丸ごとおもしろく読めるようにしなければならないという課題を負っているのです。「おもしろく読めることを強いられた世界史の教科書」と言ってもいいかもしれません。

ミステリ化

本書を注意深く読んでいくと、章や節のはじまりに読者の興味を引くような関心事を置くことで、話のテーマを明確にしていることに気付きます。

例えば、ちょうどいま栞を差してある第三章第三節「軍事力が国家を左右する時代に入った」のはじめの2段落は、次のようになっています。

 この千年紀は、人の社会が世界中で変化の速度を速め出した時代と言えよう。戦車、鉄器、貨幣、アルファベットといった各種の大発明が一つになり、国対人の関係に大変化を作り出した。帝国は興亡し、人口はさらに増え、知識も飛躍的に増大した。人類は世界の各所で新たなる発展の時期に入った。
 それはまた、人々が安定を求め社会を最善に治める方法を模索し始めた時代でもある。君主制は主流を占めたままだったが、王が強くあるべきか比較的弱くあるべきかという問題は未だ解決をみていなかった。多くの社会は、状況さえ許せば帝国を形成し近隣を支配して安定を保とうと試みた。だが、長い目で見れば、このようなやり方は常に不安定な要因を増すことになった。

この2段落それぞれの最初の1文は、段落全体の概要であり結論、そして読者に伝えたいこと(関心事)になっています。なので、次のように、この2文だけをつなげても成り立ちます。

 この千年紀は、人の社会が世界中で変化の速度を速め出した時代と言えよう。それはまた、人々が安定を求め社会を最善に治める方法を模索し始めた時代でもある。

はじめに概要を読んで「なぜ?」と関心を持つことで、直後に書いている詳細(根拠)に読み手の気持ちが向かうというわけです。

また、2段落のそれぞれ最後の1文も、段落全体の「まとめ」(次へのつなぎ)になっています。ですから、最初の概要と最後のまとめも、なくても成り立ちます。2段落の最初と最後をそれぞれカットしてみると……

 戦車、鉄器、貨幣、アルファベットといった各種の大発明が一つになり、国対人の関係に大変化を作り出した。帝国は興亡し、人口はさらに増え、知識も飛躍的に増大した。君主制は主流を占めたままだったが、王が強くあるべきか比較的弱くあるべきかという問題は未だ解決をみていなかった。多くの社会は、状況さえ許せば帝国を形成し近隣を支配して安定を保とうと試みた。

端的に必要な事実を説いている文章だけが残り、つながります。そこに作者の人格は見当たりません。そして、教科書的な文章でよく見かけるような、興味を持って読めない文章のできあがりです。前回の記事で触れたアニメ本や、高校生への主権者教育地獄編の文体は、これです。

ところでアイザック・アシモフは1992年に亡くなっており、本書はその遺作となりました。本に書かれた事実や意見などがいつまでも残るのは当然なのですが、こうやって「読みやすさ」を考え、角度を変えて見つめたときに、本を通じて著者の持つ技術というか才能というか人柄のようなものに触れることができるのはなんだか不思議な気がします。

前回「本や文章を読む行為は、語り手と読み手のコミュニケーション」だと書きましたが、『西暦3000年の人類』はまさに本を通じて時を超えたコミュニケーションを成立させている一冊だと言えるかもしれません。

この記事が参加している募集

読書感想文

noteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?