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【読書メモ】名字の言とソーカル事件

聖教新聞の一面には「名字の言」というコーナーがある。朝日新聞で言う「天声人語」のようなものだ。

聖教新聞本社勤務の職員に聞いた話だが、名字の言の担当者は特に決まっておらず、希望者が原稿を提出し、その中から掲載される文章が選ばれるようである。

その中でも好きな記者がいる。(城)というペンネームを使って執筆している方だ。
参考までに、今日(1/15)付朝刊の名字の言を掲載する。(城)によって書かれたものだ。

聖教新聞の記事シェアシステムは掲載してから72時間までしか閲覧出来ない(従って1/18AM9時まで閲覧可)。
ただ、聖教新聞電子版の1面は無料会員でも読むことができる。

なぜ(城)が好きか。
本日付の名字の言のあらすじをを私なりに書いてみよう。

場面は(城)がタクシーに乗車したところから始まる。そこでふとタクシーメーター脇に、「今日は〇〇の日」とのカードがあった。それを運転手に聞くと、客と会話するためのアイデアらしい。曰く「記念日は毎年巡ってくるものだから続けている」とのことだそうだ。

ここから(城)が話を展開する。
「誰もが持つ記念日ーーそれは誕生日」。そこから、とある座談会の回想が始まる。

そこには、翌日が誕生日の女子部員が参加していた。その女子部員は学会活動に消極的だった。彼女は生まれた直後、産声が出なかったそうだ。そんな中、母親は分娩台で必死に胸中唱題を続け無事蘇生。そのことを涙ながら話した後、「生まれ変わったつもりで信心を頑張る」と決意。

最後に(城)は、池田名誉会長の指導と仏法用語を用い、「記念日は、人生勝利の飛躍台である」と締めている。

非常に見事な流れである。身近な出来事から座談会の場面に繋げ、それが名誉会長の指導や仏法用語の意味を自然とされており、最後に自身の言葉で締めている。
私もこんな文章を書けるようになりたいーー。そう思わせられる名字の言を(城)は毎回繰り出してくる。飛び抜けた質の高さにいつも舌を巻かされるし、冒頭2行を読むだけで(城)と分かる名字の言を書いてくる。

一方で名字の言には見るに堪えないものもある。もちろん日刊であるから毎日質が高い文章を出せるわけではないし、それは全国紙でも他の機関紙でも同じだ。

ただ、そうは言ってもあまりにも支離滅裂な時がある。前半で偉人や思想家等の言葉や事績を引用し、いきなり仏法や三代会長の指導に結びつけ、「頑張っていこう」と締めるものである。
前半と後半の繋がりが無理やり過ぎるし、それで「頑張ろう」と言われても納得はいかない。


この現象はなんだろうか。そんなことを頭の片隅に少しだけ残しながら、昨年夏ネットサーフィンをしていたら『ソーカルの悪ふざけ』という題のページにたどり着いた。

その際は気にとめなかったが、現在ソーカル/ブリクモン著『知の欺瞞』を読みながら、Wikipediaで「ソーカル事件」をググッた。ニコニコ大百科で概要を簡潔にまとめてあるので、そちらをご覧いただければ幸いである。

所謂ポストモダン以降の思想家や人文科学者が、自然科学分野の難解な単語や研究を不適切に引用し、それにより自身の言説を権威づけている現状を物理学者のソーカルがセンセーショナルに摘発し、学術界を中心に激震が起こった事件だ。『知の欺瞞』は、その事件以降のやり取りも含めてまとめた本だ。

『知の欺瞞』でソーカルの立ち位置を踏まえてラカンやクリストヴァ等への批判を読む中で、私の名字の言への不信感の原因が理解できた。

それは、筆者自体よく理解できていない言葉や事績を、無理やり仏法や指導に結びつけているからだ。それを通して権威づけをしているからだ。まさに、ソーカルが批判している対象そのものなんだ、と。

(城)にそれを感じないのは、実体験を伴う卑近な例から指導等に結びつけているからだ。だから、自然に読めるし権威付けも感じないし、何より読了後の清涼感がパない。


これは学会活動に留まらず、日々の生活や仕事にも通ずることだ。相手にマウントを取るために(自覚の有無に限らず)、相手が何となく知ってる程度の知識を多用し煙に巻くことをやってしまった経験は誰しもあるのではなかろうか?

そういうことが学術界で起きていたのだから驚きを禁じ得ないのだが、私達にもあてはまる。

もちろん学術界にいる訳では無いのでそこまできっちりする必要はないのだが、引用する際は最近の注意を払わないと、自身の信頼に傷をつけることになると身を正す思いだ

「池田大作bot」というTwitterのアカウントがある。今朝のtweetがプチバズり(垢比)してたので紹介する。

このbotに100近くいいねがつくことはほとんどない。
Twitterの仕様で140字しか書けないのでしょうがないが、ソースは不明である。

名誉会長の指導には矛盾があることを留意したい。その理由は、指導をする場面や相手、時代、状況がバラバラだからだ。だからどうしても矛盾が生じる。

このtweetの指導は「行為が間違っていれば〜」から始まるが、名誉会長の指導自体に矛盾があるので当然会員同士で衝突する。

大事なのはその指導の背景を知ることで、学会員においては、相手の背景を知ることが重要なのだ。それを抜きに「お前は間違っている」と自分の正義を貫き通せば戦争になる。
創価学会が世界宗教と呼ばれるまで広まった主因は、相手の背景をよく知り、自分の思想を一般化し、丁寧な合意形成を名誉会長が進めてきたからだ
名誉会長の指導の切れ端ではなく、その忍耐強さを私たちは学ぶべきではないだろうか

指導を文脈だけ切りとって、黄門様の印籠みたいに掲げてマウントをとる時代は終わりにしよう。平易な言葉でお互いのバックグラウンドを少しずつ知りながら関係を築いていく。
そんな姿勢が幹部にも一般会員にも求められる時代が現代だと、(城)とソーカルは教えてくれる。

【1.17追記】
以前書いた聖教新聞紙面内の特集『危機の時代を生きる』について苦言を呈したが、本質はソーカル事件と同じかもしれないと思ったので再掲する。


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