見出し画像

聖教新聞「危機の時代を生きる」シリーズのインタビュアーが痛い

インタビュアーがしゃしゃり出て場を台無しにする。それはよくある事だ。私の中で印象深いのは、イチロー選手の引退会見での次の質問だ。

ーー19年間の現役、お疲れ様でした。3089本のヒットを打たれたメジャーリーグの試合、今日まで2653試合プレーされてらっしゃいました。偶然だと思うんですけども、一番最初のゲーム、セーフコでのオークランド・アスレチックス戦でした。今日も何かの縁か分かんないですけどアスレチックス戦でした。最初バートロ・コロンと対戦した時に三打席打ち取られて、四打席目にセンター前に鮮やかな一本目のヒット、抜けていったことを…(週刊SPA・小島克典記者)
ん?誰って言いました?コロン?コロンはインディアンスですよ、その当時。ハドソンです
ーーハドソンですね、ティム・ハドソンでしたね、失礼しました。えー、ティムのボールを…ティム・ハドソンから打ち取られて、四打席目最初のヒットがセンター前に抜けて行きました(週刊SPA・小島克典記者)
「はい」
ーー今日、最後の試合、結果的になりましたけれども、最初の三度は凡退で四度目のネクストサークルの時に、ひょっとしたらオープニングゲームのことが頭によぎったんじゃないかな、なんてことを見てる私は勝手に想像したんですけれども何か、1年目のゲームとか、オープニングゲームのこととか思い出したこととかあったでしょうか(週刊SPA・小島克典記者)
「まぁあの、長い質問に対して大変失礼なんですけど、ないですね

https://cozystyle.jp/ichiro-retirement-press-conference-8125

イチロー選手の引退会見は名言が多数生まれた感慨深いものだったが、会見終盤に質問をした記者が悪目立ちした。野球に興味のない方に伝わるか分からないが、私にとってこのやり取りは、インタビュアーの質問で場が台無しになることの代表例として強く記憶されている。


さて、コロナ禍になり聖教新聞紙上で始まった連載がある。「危機の時代を生きる」だ。

コロナ禍の中で世界はどう変わって、これからどうなっていくのか。学会内外問わず、様々な分野の識者へのインタビューが掲載されている。識者の慧眼は鋭くとても勉強になる。

しかし、例えば外部の識者へのインタビューでは、いつもインタビュアーが最後に無理やり創価学会・公明党の話を無理やりぶち込んでくるのだ。
外部の方がこの点をどう感じ取るか私には分からないのだが、個人的には素晴らしい講演の後に無粋な質問をされたような、とても残念な気持ちになることが多い。

例えば、12月15日付1,3面では、日本の社会福祉政策、高等教育の研究をしてきたオックスフォード大学のロジャー・グッドマン教授に、子ども政策の日英比較について、また、新型コロナウイルスのパンデミックの、子どもたちに与える影響についてのインタビューが掲載された。(聞き手=樹下智)

非常に示唆に富んだ内容で、学会員だけではなく、より多くの方に読んでもらいたい内容だ。インタビュアーもしっかり勉強してきたことが伺える。しかし、インタビューの投げかける最後の質問は次のようなものである。

――創価学会の淵源は、小学校長だった初代会長の牧口常三郎先生“教育の最大の目的は、子どもの幸福である”との信念で「創価教育」を創始したことにあります。これまで第3代会長の池田先生は、「社会のための教育」ではなく、「教育のための社会」の実現を主張し、生命尊厳の仏法を基調とした平和・文化・教育の運動を世界で展開してきました。

2021年12月15日付聖教新聞3面

それまで識者の専門分野について詳しく聞き出そうとしてきたインタビュアーが、いきなり創価学会の淵源を語り出すのである。
識者はヨイショをしたり、軽くあしらったりと様々な反応をして記事が終わる。


聖教新聞は創価学会の機関紙だ。
だから、様々な分野の指揮者から見た創価学会の評価を貰うことは少しも悪くない。
しかし、記事の質としてはどうなのか。

創価学会は社会において一定以上の評価を既に貰っている。また、池田名誉会長の元、仏法や学会活動と社会一般の物事や問題を結びつけることは、昭和の時代から行われている。
だから、今現在では、識者のインタビューを載せるだけで、内部の人には「創価学会の活動が識者の指摘に適っている」と読むことができる。外部の人には、宗教一辺倒ではない、社会を変えることを本気で考えている団体だと示すことができると私は考えている。

しかし、無理やり学会についての質問をねじ込むことで、記事に"シラケ"が生まれてしまうような気がするのは私だけだろうか
形式として、インタビュー後にインタビュアーが学会との関連性を一言メモとしてまとめる程度ならまだわかる。新規会員に向けて、わかりやすい解説になる効果がある。
ただ、ここまであからさまで違和感の生じる質問が掲載され識者に答えさせているのは、ネガティブな側面が強いのではないか。


これまで取り上げたのは外部の識者に対するインタビューだが、内部の識者の記事はもっと極端だ。

内部の識者(医療関係者や大学教授、教育関係者など)は寄稿という形で掲載されている。
専門分野に関しては、外部の識者と遜色のないことを論じている。
しかし、唐突にそれらのことを学会活動や仏法のことと結びつけて、私見を述べ始めるのである。

例えば12月18日付1,3面では、脳外科医院の副院長が寄稿した、脳の機能、特に「ニューロン」に焦点を当てた記事が掲載されている。それ自体は非常に興味深い。
しかし、ここでもいきなりぶっ込んでくる。

仏法や御書で説かれていることや学会活動が、脳の機能の活性化に役立っていると話し出すのだ。
別に学会の機関紙だから結びつけて話すことはなんら問題ない。実際に私たち学会員が折伏や仏法対話をする時も、強引なこじつけはよくする。

しかし、それまで客観的に学説に基づいて話をしてきた人が、いきなり主観的で根拠に乏しい話をし始めると、「何を言い出したんだこの人は」となることは明白ではなかろうか。少なくとも私は「それほんと?」と疑ってかかる。

学会員を気持ちよくさせるためにこの連載がされているのなら特段問題は無い。
また、その時代において仏法や御書、学会活動をどのように結びつけ解釈していくか。このことは非常に重要だと思う。

しかし、記事の内容がいいだけに、最後に無理やり学会の話をねじ込むことについてどうしても違和感が拭えない。
連載テーマは「危機の時代を生きる」となっているが、「何の」危機なのだろうか。「私たち人類の」と思わせて、実は「創価学会存亡の」危機なのでは無いかと勘ぐってしまう。

創価学会は社会の中で生きていく団体である。だから、様々な識者を呼び、新聞紙上を通して社会問題について学ぶ機会があることはとてもいい事だと思う。

ただこの連載において、社会問題の実情を学ぶ機会として完結させてはダメだったのか。無理やり創価学会の話をねじ込むことで、途端に話が胡散臭くなる印象は拭えない。
例えば、聖教新聞を友人に紹介しようとしても、無理矢理ヨイショさせるような質問を載せている新聞は勧めにくい。

とても非常にいい取り組みだと思うだけに、余計な質問が勿体なく感じる。


しつこい様だが、冒頭のイチロー選手の会見で出た質問をもう一度ご覧いただく。私の中でシリーズ「危機の時代を生きる」の無理やり創価学会をぶちこむ姿勢は、このやり取りくらい寒いものだと思っている(だから最後の質問以下は流し読みしている)。

ーー19年間の現役、お疲れ様でした。3089本のヒットを打たれたメジャーリーグの試合、今日まで2653試合プレーされてらっしゃいました。偶然だと思うんですけども、一番最初のゲーム、セーフコでのオークランド・アスレチックス戦でした。今日も何かの縁か分かんないですけどアスレチックス戦でした。最初バートロ・コロンと対戦した時に三打席打ち取られて、四打席目にセンター前に鮮やかな一本目のヒット、抜けていったことを…(週刊SPA・小島克典記者)
ん?誰って言いました?コロン?コロンはインディアンスですよ、その当時。ハドソンです
ーーハドソンですね、ティム・ハドソンでしたね、失礼しました。えー、ティムのボールを…ティム・ハドソンから打ち取られて、四打席目最初のヒットがセンター前に抜けて行きました(週刊SPA・小島克典記者)
「はい」
ーー今日、最後の試合、結果的になりましたけれども、最初の三度は凡退で四度目のネクストサークルの時に、ひょっとしたらオープニングゲームのことが頭によぎったんじゃないかな、なんてことを見てる私は勝手に想像したんですけれども何か、1年目のゲームとか、オープニングゲームのこととか思い出したこととかあったでしょうか(週刊SPA・小島克典記者)
「まぁあの、長い質問に対して大変失礼なんですけど、ないですね