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howariとおやじの日記

2024年、4月30日。
私ことhowariは、おやじと初めて対面することとなる。名前が呼ばれ、とある乳腺外科の診察室の扉を開ける。「あまりいい結果ではありませんでした」乳腺外科の先生が言う。その一声の意味がよく分からないまま、私は画面に映し出された白黒の写真を見つめる。続けて先生が口を開く。
——「乳がんです」
この日記は、howariとおやじ(乳がん)との壮絶(?)な戦いを綴ったものである。(これから乳がんという言葉は全て“おやじ”と記すことにする)

2024年、4月19日。
会社の健康診断のマンモグラフィ検査で引っかかったため、私はとある乳腺外科に来ていた。以前にもマンモの検査で引っかかり、何度か検査で訪れていた病院だ。その時は良性と言われていて、二年半ぐらい来ていなかった。今回も大丈夫だろうという心持ちだった。マンモの次にエコーの検査を受けたが、検査をしながら画面に白い塊が映し出されていて、それを何回も検査したりサイズを計ったりしていたのを、不安な気持ちで見ていたのだった。診察室に戻り、エコーの写真を見せられる。
「エコーで左胸にしこりがあったので、組織を取って検査をした方がいい」と先生が言った。組織? 検査? いきなりの事でパニックになり、待合いで検査の説明の紙を読むように言われた。針を刺して組織を採る検査のよう。痛いの? 不安に思いながらも、また診察室に呼ばれ、「今からでも検査できますし、また別の日でもいいです」と言われた。勢いのまま、今日検査をすることに。部分麻酔を左胸にかけられ、何かを刺されたな、と思う程度で10分ほどで検査終了。

2024年、4月30日。
おやじとの初対面の日。検査の結果「おやじ(乳がん)です」と言われる。先生が紙を用意して説明をするのを聞いていく。おっぱいの絵が描かれる。おやじ9mm、ステージ1~。身を乗り出して聞きながらも、どこか現実味がないような感覚がしていた。自分のことなのに、自分のことでないような感じ。
①病院を決める。→健康診断をした病院に決める。そこでMRIやCTの検査をして②治療・手術(入院)→部分切除か全摘。その後は③薬・抗がん剤?
説明を聞きながら書かれていく文字。聞き慣れない言葉の連発で、とりあえず体が硬直していた。先生に「何か聞きたいことある?」と言われても、上手く言葉が出てこなかった。病院の予約をしてもらい、待合いに戻るが、上の空で気持ちが落ち着かなかった。お会計を済ませ車を運転しながらも、おやじのことで頭がいっぱい。帰宅し子供たちが寝てから、病気の説明の紙を何度も眺めた。その日はあまり眠れなかった。

それから数日は、ぼんやりと日常を過ごしていた。“私はおやじなんだ”そればっかり。まさか、自分がなるなんて思っていなかった。おやじだって聞いても、自分がそれに侵されているなんて信じられない。痛みがないのもある。実感がこれっぽっちもない。様々な不安、恐怖で心がいっぱい。“死”という言葉が、ちらちらと脳裏をちらつく。
子供たちの為にまだまだ長生きしなくちゃいけないのに、この先、もっと最悪なことがあったら?
子供たちを育ててあげられなくなったら? 子供たちと一緒にいられなくなったら?
子供たちのことを考えると、卑屈になるし、不安で胸が押しつぶされそうになる。自分の病気のことを誰にも言えず、孤独でとても辛かった。この気持ちをどこかに吐き出したかった。
私はとある小説投稿サイトに、自分とおやじとの戦いを記録しはじめる。はじめはただ、この気持ちを吐き出したいという気持ちからだった。このエッセイは、その日記をまとめたものである。

2024年、5月8日。
両親に病気のことを打ち明けた。言うのが怖かった。悲しませたり、迷惑をかけるだろうと思っていたから。案の定、すごく驚いていたし、悲しい気持ちにさせてしまった。「どうしてこんな事になったのか」と戸惑っている母に、とても申し訳ない気持ちになり、「ごめんなさい」と謝った。私はいつも両親に迷惑ばっかりかけて、色々と悩ませてしまう娘だから謝りたかった。おやじになったこと、誰のせいでもないのは分かっている。でも、自分がひどく悪く思えて、私がどこかへ消えてしまえばいいとさえ思ってしまった。

2024年、5月13日。
健康診断をした大きな病院でMRIの検査を受ける。うつ伏せの状態で半円型の機械に入る検査。けっこう長かったけど、頭の中で歌を歌いながらなんとか乗り切る。

2024年、5月15日。
CTの検査を受ける。こちらの検査は仰向けで同じような半円型の機械に入り、合図にあわせて息を吸って止める、を繰り返すもの。しかし、体に入れる造影剤が凄まじかった。腕から針で入れる時、「体がカッと熱くなりますが、動かないでください」と言われ、「ふうん」と思いながら機械に入った。しばらくすると体の中がじんわりと熱くなり、それが全体に広がっていき、お湯が体中を巡っているような感じがした。そうして最後・・・・・・膀胱が非常に熱くなって、おしっこが漏れたような感覚がした。やばい、漏らした? と思いましたが、実際は漏れてなかった・・・・・・これにはびっくり。熱はすぐ引いたけど、二度とやりたくないと思った。とても不思議な体験だった。

2024年、5月17日。
検査結果を聞きに行く。胸の輪切り写真と3D写真を見せられ、おやじがこの辺りにいると説明を受ける。エコーの検査で1cmほどだったおやじが、2cmぐらいまで広がっていること。離れた場所にも怪しいおやじがいることが判明。広範囲でも部分切除は可能だが、切除部分が大きくなり、胸の形が変形するのだそう。それならと先生は、乳房全切除術(いわゆる全摘)をすすめます、と言った。片方の胸を失うということだ。予想外の展開に言葉を失った。私的には左胸は残し、部分切除になるだろうと思っていたから。おやじが広範囲にいるなんて、想像していなかったのだ。もし、今回部分切除を選んだとしても、乳腺がある以上、またおやじは現れるかもしれない。リンパや他の部分に転移するかもしれない。そうなったら、命に関わるだろうし、もっと大変な手術になるかもしれない。全摘で乳腺を取ってしまえば、おやじの心配はなくなるらしい。頭の中では全摘しかない、と分かっていても、その状況をすぐに受け入れられない。受け入れるのが怖い。今まで当たり前にあった左胸。それが失くなる? 想像できない。自分の一部が欠損するって、どんな感じなんだろうか。
次までに決めてきてください、と先生に言われ、予約だけして帰った。

おやじになってから、何をしていても楽しくないし、“無”の気持ちのまま毎日を過ごしていた。唯一夢中になれたこと、おやじのことを忘れられたのが読書だった。もともと本を読むタイプではなかったが、3年ほど前から小説を書くようになり、その勉強のために本を読むようになった。すっかり、読書の世界に夢中になってしまったというわけだ。毎日なにかを読んでいないと落ち着かない。今の私の唯一の救いは、読書だった。

2024年、5月20日。
よく考えて命を最優先し、左胸を全摘すると先生に伝えた。もう手術の日にちは6月6日と予約をしていたので、その前に入院の面談と入院の説明を聞き、手術前の検査をすることになった。採血、心電図、胸部レントゲンなど。ああ、私この病院に入院するんだ・・・・・・と思うだけで、あまり手術をするという実感はなかった。

2024年、5月29日。
先生から手術の説明を聞く。出血もあまりない安全性の高い手術だそう。その後、麻酔科の先生に全身麻酔の説明を聞く。以前、流産の手術で全身麻酔を経験していて。その時は目は瞑っていたけど、意識はあった。痛みはないけど、何をされているかという感覚があって、悪夢を見ているような感じだった。
しかし、今回は完全に眠るタイプの麻酔だそう。深い麻酔だから、人工呼吸器を装着するらしい。麻酔が効いてから口からチューブを入れ、肺まで入れるのだそう。人工呼吸器を入れるなんて、予想外だったので驚愕する。手術後に意識がある状態でそのチューブを抜くらしく、「おえ」とならないか。それが怖いし、痛そう。麻酔を入れる点滴も痛いらしい。それに加え、手術の数時間前に、検査の為の薬を左胸にぶすっと打つのだが、それも痛いらしいのだ。いや、いや、痛いの多すぎない? もう勘弁して! と発狂しそうになる。この日は手術への恐怖心がMAXだった。

自分がおやじにならなければ、おやじについて知ることはなかった。少しおやじについて書こうと思う。
〈おやじ=乳がんとは〉乳房の乳腺組織にできる悪性腫瘍のこと。おやじの多くは乳管から発生する。治療をしないとだんだんと大きくなり、リンパや臓器、骨、脳などに転移をする進行性の病気である。
おやじは、はじめのうちは乳管内にとどまっているが、やがて外を包んでいる膜(基底膜)を破り、乳管内の周囲の組織に広がっていく。乳管内にとどまっているものを〈非浸潤がん〉、乳管の外に出たものを〈浸潤がん〉という。おやじと診断された方の80%以上は浸潤がんだそう。
私もこの浸潤がん。誰も「外に出ていいよ!」と言ってないのに、勝手に膜を飛びだして遊びに行ってしまうおやじ。そのまま野放しにしてしまうと、どこかへ転移する恐ろしいおやじ。なんとまあ、なめたおやじなんだろう・・・・・・。
〈病期(ステージ)について〉おやじがどの程度進行しているかを示す指標として用いられるのが病期(ステージ)分類。数値が大きいほど、病気が進行している。私の場合はステージ1。早期発見で良かったなぁ、ととりあえず安堵。
〈細胞の性質について〉おやじには、おだやかなものから活発なものまでいろいろな性質がある。性質によって、これからの治療方針などが変わってくる。手術で摘出したおやじを病理検査に出し、その結果によって治療が変わってくるのである。

2024年、6月5日。
手術前日。昼頃から入院。術前の歯科検診を終え、病室でのんびりと過ごす。いつもは家事や育児でバタバタするけれど、TVを観たり、本を読んだり、贅沢な時間を過ごしてるなぁと感じる。明日手術という実感がない。夜の0時から絶食、明日の7時から絶飲食。夜食のパウンドケーキを買ってきて食べる。しかし、もう逃げられないからか、気持ちは落ち着いているものの、なかなか眠れなかった。

私が受ける手術は、「乳房全切除術+センチネルリンパ節生検」というもの。左乳房を切除後、わきのリンパ節まで転移があった場合、その周辺の組織を取り除く腋窩(えきか)リンパ節郭清(かくせい)を追加で行う。それを判断するために、乳房切除後にセンチネルリンパ節生検を行うのである。転移があった場合、リンパ節だけではなく、全身に微少のおやじが散らばっている可能性がある。その場合は、抗がん剤治療をしなくてはいけないらしい。抗がん剤は髪が抜けたり、副作用が辛いイメージがある。なるべくならやりたくない。今は転移がないことを祈るばかり。おやじよ、お願いだから、リンパ節まで遊びに行っていないで! 今はおとなしくしていてくれ! と願うhowariであった。

2024年、6月6日。
ついに手術当日。朝7時から絶飲食。
手術の3時間ほど前に、検査のための注射を左胸にチクリと打つ。痛いと聞いていたが、全然痛くなかったので安心。しばらく、病室でのんびりと本を読みながら過ごす。
数時間後、胸に銅板を当てながら寝転んで検査をする。病室に帰ってからしばらくすると、母が病室にやって来た。手術が終わるまでいてくれるらしい。手術の10分前にトイレに行き、手術着に着替える。あぁ、ついに手術かぁ・・・・・・と思いながらも実感は湧かないし、よく分からない感情に包まれていた。
一番怖かったのは、手術室の前に来た時だ。自動ドアの前で母と別れ、看護師さんに自分の名前と手術の場所を聞かれて答える。一番の手術室です、と言われ、医療ドラマみたいな銀色の扉の前をいくつも通り抜け、自分の手術室の扉の前に来て、ようやく実感が湧く。逃げられない恐怖が、ひしひしと襲いかかってくる。
扉に入ると、広い手術室の真ん中に意外と小さな手術台があった。寝てください、と言われ寝ると、看護師さん達がカチャカチャと忙しなく動き回る。もう後戻りできない、という緊迫感にも包まれ、不安な気持ちのまま、緊張がMAXになって体が震えそうになる。麻酔科の先生が来て、説明しながら麻酔の注射を入れてくれる。心電図をつけられ、自分の心音が激しくピッピッピッと響いている。そんな時、いつもの主治医の先生が目の前に来て、私の名前を呼んでくれて安心する。私の手術を担当する優しい先生だ。そうして、酸素マスクをつけられ、麻酔を入れます、と言われるとすぐに眠りの世界へ突入。
手術はあっという間だった。体感時間としては、だいたい5分くらい。なんか夢を見ていたような気もする。名前を呼ばれて目を覚ますと、まだ手術室に寝ていた。人工呼吸器を抜くとき、管と喉が擦れて痛かった記憶がある。
そこからベッドに移されたのは覚えているが、記憶が曖昧になっていて、知らないうちに病室に戻っていた。母がいて、「無事でよかった。転移がなくてよかった」と言っていて、転移がなかったんだと知った。ぼんやりとした頭のまま、安堵する。母は子供が帰ってくる時間だったので、しばらくして帰って行った。
手術は3時間ほどだった。明日の朝まで絶飲食で、ベッドでの絶対安静。何やらたくさんの管が付けられていた。心電図やら、鼻からは空気の管、点滴、尿道カテーテル、左の脇からは廃液を出すドレーンチューブ。体全体が痛いし、ベッドに縛り付けられたみたいに体は動かない。両足にはマッサージの機械。
やたら体がえらいし眠いし、眠ろうとしたけれどなかなか眠れない。身体的なダメージなのか、精神的なダメージなのか、全然眠れなかった。少しだけ眠れたかなぁ・・・・・・と思ったら、朝が来ていたような感じ。術後の夜が一番辛かったかもしれない。傷口はまだ見れなかったけれど、何ともいえない孤独と不安で死にそうだった。「何でこんな事になってしまったのだろう・・・・・・」と、一人ベッドで泣いた。でも、頑張った自分も褒めてあげたいなとも思った。

2024年、6月7日。
術後1日目。朝、点滴や心電図、歩けるようになったので、尿道カテーテルが取れた(これが結構痛い。涙)。朝のご飯が死ぬほど美味しかった。今日からだいたい1週間ほどの入院になる。脇のドレーンが取れると、入院が近いそう。歩くと傷口が痛いし、左腕が上がらない。毎日少しずつリハビリをするのだそう。
手術から1日が経ち、意外にも気分の沈みはなく、読書をしながらのんびりと過ごす事ができている。とりあえず、ご飯がとても美味しい。それだけで幸せだった。たくさん食べて早く元気になりたい。

2024年、6月11日。
朝先生が来て、明日ドレーンが抜けると言われた。なので、明日退院することに決めた。まだ傷口が痛むけれど、リハビリも頑張ってるしだいぶ歩けている。退院することは嬉しいけれど、また忙しい毎日に戻ることが大変だろうなと思う。きっと、気持ちが滅入る時もあるだろうし、心に余裕はないと思う。まずは自分の体を最優先にし、ゆっくりと日常を取り戻していきたいと思う。

2024年、6月12日。
退院当日。朝ドレーンを抜き、少しリハビリをし、母の車で我が家に帰ってくる。疲労が溜まっていたのか、帰ってきて安心したのか、しばらく横になっていた。入院中は小説読んだりできたのに、何もやる気がでない。だいぶ心が沈んでいるようで、体と心を回復させるのに時間がかかりそうな気がする。

2024年、6月17日。
退院後はじめての診察。傷痕を診てもらい、溜まっていた水を抜いてもらう。傷は腫れていないし、水もいい色をしているようで、経過は順調のよう。また来週、水を抜くための予約をする。その時に摘出したおやじの病理検査が出ていれば、聞くことになると思う。

毎日お風呂に入る度、膨らみを失くした左胸とご対面する。平らな胸にある斜めの切り傷。(けっこう長い)まだ、見るのに慣れていなくて、あまりにも悲しくて、ずっと見ていられない。当たり前にあった時は何も思わなかったけれど、失くしてしまって大切だったのだと気づいた。手術したことを後悔はしていない。しかし、これはあまりにも残酷だ。辛すぎる。このショックから立ち直るには、まだまだ時間が必要なんだと思う。

2024年、6月24日。
水を抜いて、病理検査の結果を聞いてきた。切除した左胸の断面図を見せられる。印がつけてあるのがおやじだと、先生が説明をする。
ばらばらと広がっているので〈浸潤がん〉であること。(乳管から外に出るがん)
大きいもので約8mm程度だから、ステージ1であること。広がりは4cmほどだった。
おやじがホルモン受容体(女性ホルモンを餌として増殖する)であるため、ホルモン治療が必要だということ。抗がん剤治療はなし。ホルモン剤を5~10年服用すること。
そこまでは良かったのですが・・・・・・。
胸の奥の方までおやじが広がっていたらしい。画像を見ると、確かに奥の方までいる。その後ろには、筋肉と皮膜があるらしい。手術でおやじは全部摘出したのだけれど、もしかしたら、筋肉の方まで微少のおやじがいるかもしれないのだそう。だから、ホルモン治療と合わせて、放射線治療をした方がいいと言われる。筋肉の後ろには肺があるので、転移する危険があるらしい。予想外の展開に戸惑った。根深かったおやじを深く憎んだりもした。しかし、やらないと再発する危険がある。もう、やるしかないよなぁ・・・・・・はぁ。

〈放射線治療とは〉手術では切除できなかった目に見えない微少ながんを、高いエネルギーのX線を当てて死滅させる治療。がん細胞は放射線によるダメージを受けやすく、その組織を効率よく攻撃することができる。

2024年、7月5日。
放射線科の先生の話を聞きに行く。放射線治療や副作用について。放射線の回数は全部で30回。総線量は60グレイ。土日祝日を除いて、周5回連続して通わないといけない。毎日当てないと効果が期待できないのだそう。約1ヶ月間毎日通うことになる。毎日かぁ・・・・・・病院まで少し遠いから大変だけど、残っているかもしれないおやじを死滅させるために頑張らないといけないなぁ、と決心。
放射線を当てるのは2~3分程度。治療をはじめてしばらくすると、皮膚が火傷したみたいに赤くなったり、乾燥しやすくなるのだそう。照射部分の日焼けはNG。あと、すぐ近くに肺や心臓があるので、当たらないようにするとは言っているけれど、もしかしたら当たるかもしれない。その場合は肺炎や、心臓に水が溜まるかもしれないのだそう。怖いけれど、再発する方がやっぱり怖い。もう、ここまで来たら何でも来い!

2024年、7月16日。
放射線治療の準備のため、CT検査をする。

2024年、7月18日。
放射線治療1回目。当てる場所を決めるため、左の胸壁などにマーキングをされる。いつ放射線が来るの? と構えていたけれど、機械がぐるぐると回り、知らないうちに終わっていた。痛みはない。その後先生の診察。当てた部分の画像を見せられる。当てるのが難しかったらしい。微かに肺や心臓をかすめているが、これぐらいなら問題ないらしい。それなら良かった。これから周に1回は先生の診察がある。1回目の驚くべき高額金額に驚愕する。

2024年、7月19日。
放射線治療2回目。無事に終了。消えかけていたマーキングを足される。1回の金額が分かり、毎回このぐらいかかるのだと納得。この夏はお金がかかるので、なるべく節約をしないといけないと決心する(涙)。

2024年、7月22日。
今日で放射線治療も3回目になる。無事に終了。今こうして日記を書いているが、創作大賞の締め切りのため、とりあえずはここで日記は終わりとする。
今日からの治療がまた大変だけれど、これからも生きていくために頑張って通おうと思っている。子供たちの夏休みが終わる頃に、私の治療も終わる予定だ。無事に何事もなく進んでいけばいいなぁと思う。

この前、長男に傷痕を見せたら、「刀で斬ったみたいでカッコいい!」と言われた。確かに、刀で斜めに斬られたみたいだけれど・・・・・・。まぁ、でもこれが、おやじと戦った証なのかもしれない。自分が頑張った勲章なのかも。この傷痕を見る度に、私頑張ったなって思おう。カッコいいなって思おう。でも、“この傷の痛みは一生忘れないでいよう”と思う。
おやじに出会ったことは、いいことだとは思わない。できるだけなら、出会いたくはなかった。しかし、色々と分かったことがあるのは確かだ。

——やっぱり、自分の命は大切だということ。
——人生は短いということ。
——毎日を大切に生きなきゃいけないということ。

今まで健康だったから、本を読むことも、物語を書くこともできた。毎日育児や家事に追われ、それでも健康だから過ごせてこれた。それを当たり前だと、ずっと思っていたけれど。こうやって病魔に襲われて、痛くて辛い思いをたくさんした。今までの人生、そりゃあ色々な事があったけれど・・・・・・今回のおやじとの戦い(まだ、戦いの最中だが)が、人生で一番の壮絶な出来事であったように思う。
人生の終わりをまじまじと肌で感じ、“死”というものを身近に感じた。おやじを取り除いたからって、そこで終わりではない。この先、治療をしたとしても、いつ再発するのか分からないのだ。おやじは本当に恐ろしい病だ。自分の人生には期限があるのだと、今回のことで思い知らされたのだ。それは、とても恐ろしいし、怖い。悲しいし、切ない。
だからこそ、これからの人生を後悔のないように生きたいと、つよく思う。
子供たちのために何が遺せるだろう。私には何が遺せるだろう。それはまだ分からないけれど、とりあえずは自分を一番大切にして生きていきたいと思う。我慢をしない。好きなことをする。美味しい物を食べる。子供たちとたくさん過ごす。そうして、自分の夢を叶えたい——いつか、叶えたいと思っていた夢。自分の本を出すという夢。それを早めに叶えないといけなくなった。そうするには、もっと本を読んで、もっと書かなくちゃいけない。無理な夢だって分かってはいるけれど、おやじのおかげで覚悟ができたのかもしれない。限りある時間の中で、全力でがんばるということを。
だから、私は夢をあきらめない。
人生をあきらめない。
私のこれからの短い人生を、もっともっと幸せに生きていくためにがんばるのだ。
おやじ、覚悟しろ! 
お前なんかに負けてたまるか! 
私は絶対に生きてやる! 
大きな夢を叶えてみせるんだ!

howariとおやじの戦いは、まだ始まったばかりである。

(とりあえず、了)

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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