鏡がなけりゃ、高橋一生になれたのに
イケメンと自認するために、鏡を手放してみては?
世界で一番美しいのはだーれ?
と、とある女が鏡に話しかけた。すると、世界で一番美しいのは白雪姫であると鏡は言う。
少なくとも、世界で一番美しい人間は筆者ではないらしい。もしかして、私もあの魔女に倣って、白雪姫に毒リンゴを食わせるしかないのだろうか。
鏡の中の自分に出会う
さて、もちろんこれはおとぎ話。そのため、白雪姫を毒殺しようなんて思いもしない。
一方で、鏡の中の自分と出会い、肩を落としたことは何度もある。
イケメンに生まれていればだの、ニキビ跡ができてしまっただの。鏡というものは、否応なしに私の顔面を映し出す。他方で「思ったより、アゴが引き締まったな」なんて喜んだこともあるっちゃある。
それゆえ、鏡は良くも悪くも、私が私であると視覚的に認識するために必要不可欠な道具であると言えるだろう。
人間が顔を認識したのはつい最近
ただ、どうやら私たちが鏡によって肩を落とし始めたのは、それほど昔の話ではない。鏡、特に鮮明に像を写すガラス鏡がこの日本で製造され始めたの1750年~1800年頃。また広く大量に製品化され一般化したのは明治時代の終わりだそうだ。
また世界に目を向けてみても、オランダでガラス鏡が発明されたのが1500年代(発明されただけで一般化はしていない)なのだから、ざっと500年、なんなら200年前まで、人類は自分の顔を明確には認識出来ていない人が多かったということになる。
鏡がなけりゃ高橋一生になれたのに
源氏物語の光源氏は水面に映る自分の顔に恋をした。ただ、水面のようにグラグラした鏡なら水面に映るその顔を鮮明には認識できなかったはずだ。それでも、「恋する」というくらいなのだから、水面に映った像を補おうと、光源氏自身がそれを超絶イケメンに脳内補正したかもしれない。
私は幸か不幸か、鏡が日用品として一般化した時代に生まれてしまったわけである。もしも鏡がなければ、私はいまや高橋一生然として悠々と街を闊歩できたかもしれない。だって自分の顔を完璧に認識できないでいられるのだから。なんなら水面を見て、
と思えたはずだ。そう思うと高橋一生には腹立たしささえ覚えてくる。きっと高橋一生は毎日、自分の顔にほれぼれしているに違いない。
いま、私と高橋一生の共通点を上げるとすれば、鏡がなくなったがゆえに髭剃りで血だらけになることくらいだろう。
鏡アリで完璧にひげを剃れる人生か、鏡ナシで高橋一生の顔に生まれ変わるか。もし選ばなければならないのなら。
髭が整った私と、血だらけの高橋一生。
うーん、後者の方がカッコいい。
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鏡がない生活ってどんなもんなんですかね。
もしかして自己肯定上がったり・・・?
かといって、ないと不便ですよね、、、鏡。
ちなみに、鏡(銅鏡など)ってもともとは宗教などの儀式の道具の意味合いが強かったらしいです。
★古民家ですが、鏡はあります(一泊一人5400円~6000円)
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