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旅では嘘もホントになる

嘘を嘘だと指摘するのは野暮だったりもする

おじさんの知恵

「冬場の雨は、天然の肥料になるんや」

と家庭菜園歴30年の田舎のおじさんが言う。偶然それを耳にした旅行者は目を輝かせる。さすがは長年畑仕事をしてるだけあるぜ!と聞き手は感心しているようだ。地域住民から聞ける田舎ならではの学びは旅の醍醐味だろう。

さて、ここには決定的な間違いがある。

雨は肥料にならない

早速だが答えはここだ。

「冬場の雨は、天然の肥料になるんや」

科学的なことを言うと、冬場だろうが夏場だろうが雨というものは、土壌の肥料分を流出させる性質を持っている。たしかに冬場に雨が少ないことによって、土壌分の水分量であったり、土自体の構造が崩れたりと作物の生育に影響を及ぼすことは確かである。しかし、事実として、雨は肥料ではないのだ。

旅行者の輝く目

実は、この例は実際私が経験したこと、つまり私が暮らす島での話だ。当時、私はこの誤りを指摘する勇気がなかった。なぜなら、あまりにも旅行者の目が輝いていたからである。ここで話をさえぎって

「雨というのは、肥料ではなくて、うんぬんかんぬん・・・」

と指摘することが彼らの旅行体験としてふさわしいかと考えた時に、いわゆる「興ざめ」になりそうな気がしたのだ。このような人間関係の中で、科学はうそを超えられない

performance authenticity(演出された真正性)

さて、このような状況を観光社会学では「performance authenticity」と呼んだりもする。もし訳すならパフォーマンス的(演出された)真正性といったところである。

より学際的な例を挙げるなら、南の島での例。ある日、島で崇拝の対象となっている銅像の人物は科学者らの調査によって、その存在が否定された。つまり、銅像の人物は架空の人物だったのだ。にもかかわらず、島の人々らによって銅像への崇拝は今もなお続けられている。
この例は、島民が科学的な見解よりも、嘘であっても崇拝するというパフォーマンス自体を重要視しているということを意味する。

答え合わせは野暮

今回のおじさんと旅行者の例もこれに通ずる部分がある。つまり、旅行者はおじさんのパフォーマンスを本物として認識しているということだ(※おじさんに嘘をつく気はないとはいえ)。

旅行体験としての満足を考えると、嘘は事実をも凌駕する。
無論、私が一人悶々としているだけで、両者からすれば知らぬが仏な話でもある。

年々、科学的根拠や客観が重要視されているとはいうものの、時と場面によっては嘘を嘘だと指摘するのは野暮だったりもする
その最たる例が、旅である。おそらく、この事実が嘘ではないということだけは、どうやら確か"らしい"。

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performance authenticityと堅いこと書きましたが、私はこの用語を見たとき「思い込んだら全部本物になるってこと?だったら、もうどうしようもないじゃん」と思ったのです。

大学院の研究室でのもやもやは今も晴れてはおりません。

というわけで本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

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