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ひみつ基地は何が秘密だったのか

この公園は球技禁止らしい。
だとすると、子どもたちは何をして遊ぶのだろう。持ち寄ったゲーム機をピコピコするか、ひみつ基地を作る程度か。なんて旅先で訪れた中途半端な広さの公園で、そんなことを考えていた。

「勝手に入ってこんといてや。ここ俺らのひみつ基地やねん」

小学生おそらくその中学年頃の私は、公園の茂みに打たれた軟球を探しに行った。4人しか集まらなかったその日の野球では、打たれた瞬間にゴロでもフライでも全てヒットになる。そして公園の茂みにすべからく落ち込むのだった。

そして、何球目かの球を拾いに行ったそのとき、彼らのひみつ基地に出くわしたのだ。

「何がひみつ基地やねん。丸見えやないか」

そんなことを子どもながらに思った。当時の私ももちろんひみつ基地を作ってことはあったが、このときばかりは夢のない発送が私の脳を支配していた。そして、これ以来、誰かのひみつ基地にはもう出会っていない。

私もいわゆる大人になった。それもそのはず、先日幼稚園生の男の子に「おっちゃん」と言われてしまった。まぁ、酒も飲む、膝も痛い。いくら20代であるとはいえ、子どもから見ればおっちゃんだろうし、少なくとも私が大人であることを示すには充分過ぎるのだろう。

そんな大人の私は先日グルメ雑誌を開いた。「誰も知らない大人の隠れ家特集」としてこじんまりとした居酒屋が数十軒は紹介されている。
都会のビルに潰されそうになりながら営業するおでん屋、住宅街にぽつんと佇む創作イタリアン。ただ、そのどれもが「〜駅から徒歩〜分」と紹介されている。挙げ句、店によってはご丁寧に近隣の地図まで掲載されているのだ。

「何が隠れ家やねん。丸見えやないか」

私は成長していないのか、それとも当時から腐っていたのか。こんなことを思う自分に少し疎ましさを覚えた。

隠れ家的居酒屋そして何よりひみつ基地が、周囲に丸分かりなことなど、私だけでなくこの世の全ての人が認識していることだろう。

だとすれば、ひみつ基地は何が秘密だったのだろう。

隠し事はよくないと教育されたことに対しての子どもなりのアンチテーゼだったのだろうか。
それかもっとシンプルに、一部の友人とだけで通じ合っているという事実を秘密として楽しんだのかもしれない。

一つだけわかっていることは、「ひみつ」は誰しもを魅了する。大人であれ、子どもであれ。そして、それがいくら丸見えであっても。

ただ、かくいう私はひみつに魅了されているとは思えない。なにせ今も昔もひみつを批判しているのだから。

あ、そこの貴方、

「丸見えやないか」

なんて言わないで。


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