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お客様は神様ではないけれど、主人公ではある

お客様が神様なら、私自身が相手に向って施すことは何もない。
なぜなら、私などよりも神様の方がきっと遥かに崇高であるはずだからだ

死語となった「お客様は神様です」

「お客様は神様です」なんていう標語が時代錯誤だと揶揄されて何年が経つのだろう。過去に「お客様は神様かよっ!?」というテレビ番組も放映されていたが、これが茶の間に流れていたのも2007年から2013年のことらしい。
つまり、もはやお客様は神様ですはもはや死語と言っていいのかもしれない。
もっともこの標語に対する「顧客の立場が上」という理解は誤解であって、あくまでもてなす側の心構えであったのも確かだそうだが。

お客様は主人公

さて、私自身、今宿業を営むにあたってお客様を神様とまで思うことは数少ない。もっとも度々お客様から手土産を頂戴することもあり、どちらがもてなされているのだか?なんて感じることも。

また中には「友達」「親戚の子」のように接してくださる方もおり、そんなときはお客様という線引きが揺らぎ始める。ともすれば、やはりお客様は神様という異世界の人ではなくて、やはり俗世の住民であるということがひしひしと理解できるのだ。

では、お客様とはいかなる存在なのだろう?と改めて思う。
そして、最近一つの結論めいた考えが浮かんでいる。それは神様ではないが「主人公」ではあるということである。

特に私のような宿業の場合は、子連れ客が現れたとき、お客様はより主人公らしくなる。親も子を喜ばせたいし、私もそうだ。そして何より子どもたち自身が楽しむことに対して貪欲である。だからこそ、自分の思うような遊びが始まらなければ、この世の終わりのように泣き始めるのだろう。

子どもが泣くと、周りの大人は皆その子を見る。いわば、視聴率100%なのだ。私の宿業を物語として捉えた場合、特定の視線の注がれる対象はやはり主人公であることに他ならない。

主人公感を覚える人が何人いるか?

ともすると、私の課題はお客様にいかにして主人公感を覚えてもらえるかというところにあると最近は感じている。

そのため、先に挙げた子どもはもちろんだが、その親にさえ「久しぶりにゆっくりできた」なんて思ってもらえたなら尚良い。なぜなら、たとえば「子が楽しんでくれて嬉しい」という感想は我が子とはいえ第三者の幸せへの評価であって、自身を主語にしたそれではないからだ。

主人公の感想はやはり一人称で語られなければならない。

誰かを主人公にするということ

きっと「誰かを主人公にする」ことの大切は宿業だけではなく、公私様々な場面で、いかなるサービスにも通底するところなのではないか。

家を建てるときは施主は目を輝かせ、フレンチレストランでは「今日だけは私がお姫様」なんて気分でうっとりとする女性にも遭遇する。そのときハウスメーカーの社員は、レストランのシェフやスタッフは、そしてその女性の恋人は、きっと目の前の人間を主人公にしようと奮闘しているに違いない。

もし仮にお客様が神様なら、私自身が相手に向って施すことは何もない。なぜなら、私などよりも神様の方がきっと遥かに崇高であるはずだからだ

一方で、お客様も私と同じ人間であるならば、時に自分を主語に生きるすなわち人生の主人公と自覚しながら時間を過ごしたいときもあるはずではないか?

お客様には最優秀主演男優・女優賞を、そして私は最優秀助演男優賞を本物の神様に授けてもらえるように。

(終)

ーーー

小難しく書きましたが、実体験レベルでは以下くらいのお話しでして↓

よくお客さんのお子様たちと遊ばせていただくことが多く、そうしたときにしばしば

「子どもと遊んでくれていたので、久しぶりにゆっくりお風呂に入れました」

なんてパパさん・ママさんにお声がけいただきます。実際、ママがお風呂にいると気づいた瞬間に、泣きだすちびっ子もいて「こりゃ、普段はおちおち風呂も入れねぇな」なんて子育ての辛さを表面的ではありますが感じ取るのです。
だからこそ、私にできることは「ちびっ子と全力で遊んで(≒もはや疲れさせて)、結果的にちびっ子には早くぐっすり寝てもらう」→「パパやママに休憩してもらう」なんてことなんじゃないかなと思っています。

ウチの宿では子どもは遊びの主人公親は休憩の主人公として過ごしてもらえればと思っています。

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