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三浦春馬が亡くなって悲しかった人、今でも辛い人、モヤモヤしてる人、日本のみんなへ。お願いです。「平和って何?」一緒に考えてほしい。〜涙の向こうに見えるもの〜

私は三浦春馬君のファンではなかったが、
あの日かなりの衝撃を受け、ずいぶん引きずった。

とあることがきっかけで、この問題に対峙することにして、この1週間くらい、毎日泣けて泣けて仕がない。

正直言って、こんな大きなテーマに、たくさんの問題に、ぶちのめされるとは思わなかった。

悔しい、悲しい、苦しい。
とにかくやっぱり悔しい。
なんて自分は無力なんだろう。
自然と涙が溢れる。
そんな毎日だ。

私は低所得者のただの一般市民だが、
今どうしても伝えたくて、
自分に出来ることは今はこれくらいしかないから、
批判もバッシングも覚悟で投稿する。



自分なりに精査して調べてみた。
どうも自殺とは考えにくい。
限りなく不審死だし、他殺と思われても仕方ない。
どちらかといえば、私は他殺を疑っている。


人生にして初めて、数々の陰謀論を知ることとなった。
この国の闇を、世界の闇を、知ることとなった。
これらが本当だとしたら、なんて恐ろしい世界に私は生きているんだろう。
怖くてたまらない。

感情のやり場もなく、振り回されもし、挙げ句少し疲れてしまった。


私はずっと騙されて生きてきたのか。
私は何も知らずに平和に生きてきたのか。
悔しさと自己嫌悪と虚しさが入り混じっている。



彼の生い立ちが可哀想、辛かったんだね、とか、
もう本当にくだらない。
彼はそんな境遇を抱えながらも、成熟を重ね、努力して真摯に生きていたに違いない。


彼が生前残した言葉を以下に上げて置きたい。
広島の情報誌:(訃報僅か10日前)
「誰もが人生を諦めたいと思う瞬間ってあると思いますが、そうやってむなしく過ごした1日も、戦時中の当時、誰かがあれ程”生きたい”と願った1日なんですよね。、、明るい未来の話をして欲しい」


私は一体誰に操られているのだろうか。
政治、宗教、マスコミ、警察、司法、教育、、。
この裏に何かがいるのか、いないのか。
いたとしても、もはや私の手におえる物体では無いだろう。
そこに今すぐ導き出せる光は無さそうだ。



これだけは言う。
「私は、私たちは、いつまで飼い慣らされていれば気がすむのだ。」



いつまでもモヤモヤして、引きずって、
何かの組織のせいにして、つぶやいている。


三浦春馬君がまだ若くて尊い命と引き替えに、
私たちに置いてった壮大で難題で大切なことを、
しっかり受け取らなければならない。
それがせめてもの供養、私にできることだ。



この国は、本当に平和か?安全か?公平か?
弱い者は守られているのか?



学級委員や生徒会、面倒臭いことは誰かに任せておけばいいや。
そんな気持ちをいつまでも持ち続けていやしないか…私たち中年世代。


好きな事だけして、好きな世界に囲まれて、
好きな人達とだけ繋がって、日常が楽しければそれでいい。
本当にそれが幸せか?
本当にそれが平和なのか?



私は今更ながら、思い出した。
気付かされた。
「平和とは、他人を受け入れ、思いやる気持ちを持つことによって生まれる。」



しかし、これを考え出したら、
とんでもなく膨大な問題が世界中に広がっていた。
じゃあだからと言って、他人事にしてしまったら、平和はいつまで経っても訪れない。
もちろんその過程は果てしないかもしれない。
私の人生は歴史の極々一部なんだ。
その一部をどう生きるか、平和になる道を探し彷徨い歩く、結果はどうあれ、その道が大切なんじゃなかろうか。


じゃあ、私は何をした?
どんな道を歩いてきた?


何もしてない。
ただ、目先のことに追われ、
時には忙しいとか託けて、
興味のある物だけを選定し、
好きなもので囲い、
淡々と日常を生きて来た。




「それじゃ平和にはならない」のだよ。



戦後、私たち日本人は、努力して安心で平和な国を作ってきた。今こうして呑気に楽しく生きていられるのは先人の努力のお陰であり、感謝しなければならない。
私はそう思って来た。


でも、この三浦春馬君、その後の芸能人の不審死、引いては何十年も前に遡っても多々ある著名人の不審死。
これらを検証するにあたって、
平和も安心安全も何もかも、ぐちゃぐちゃに崩壊するくらい、人生の衝撃を受けた。



それだけ、私はきっと何かに完全に飼い慣らされて生きてきてしまったのだろうか。
悔しいし、自己嫌悪だし、虚しいのだ。



話を焦点に当てることにする。
この三浦春馬君の不審死について。
どこかの陰謀とかなんとか、いろいろあるが、
まずは警察の対応が問題なのではなかろうか。


これを読んで個人的にはとても大切な問題提起を開示していただいたと思い、筆者に感謝している。受け取り方は人それぞれだが、是非読んでみていただきたい。


人が死んだ時、警察はどう処理しているのか。
それは過去を遡ってどう続いて来ているのか。
ここがこの件の鍵である。


三浦春馬君の不審死を機に、警察の実態を、他人事ではなく、どうにかこうにか自分事として、考えて行かなくてはならない。

私は長年尾崎豊のファンだが、彼も30年前、不審死を遂げており、私はずっと悶々と生きて来た。

有名人だから目立つだけであって、本当は他殺である可能性の自殺処理は日本中、今現在もたくさんあるのかもしれない、ということを心に留めて置かなくてはならない。

今は自分の身に振りかかっていないから良いが、
もし、身内に、他殺かもしれないのに自殺で処理されてしまうことが起きたら、どんなにやるせないだろう。ましてや、自分が殺されたとして自殺で処理されたら…。悔しくてならない。



尾崎豊の再捜査願いは、10万人の署名を警察に届けても、受け付けてはもらえなかった。署名を船頭した父親は3年前に亡くなった。無念でならない。


しかし、他国、ブルース・リーの死因究明裁判は世論が後押しして実現した。
この事実は希望だ。



話をまた元に戻す。
「平和とは、他人を受け入れ、思いやる気持ちを持つことによって生まれる。」
(これは私の自論)


今一度、この国は、本当に平和か。安全か。安心か。公平か。
それを考えなくてはならない。
今、既成にあるすべてのものが、誰にも公平で、利害関係なく、存在しているだろうか。
尊重し合い、思いやりのある信念で、存在しているだろうか。


これを達成することは、おそらくとてつもない労力と時間が必要であろう。
到底個人の力ではどうにも出来ない。



でも、私は思考し、平和を模索して行く道を、歩んで行きたい。
これからは、そうして、生きたい。
そう思えた。



ご冥福をお祈りします、だけでは、
私は絶対に終わらせられない。



どうかどうか、みなさんも自分のことでいっぱいいっぱいかもしれませんが、

少しの時間、一緒に考えていただけませんか?

どうかよろしくお願い致します。




こんなに壮大で、難題で、大切なことを、
尊い命と引き替えに置いてった、
三浦春馬君に、
私は心から敬意を表したい。




尾崎豊
「僕が僕であるために」


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