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Episode 412 不安を生成するのです。

先ず、これを。

すごく納得するツイートなのだが、何だろうかね…これ。
「面白いくらい今の状況を不安に思ってない」…確かに、ねぇ…。
そうなんだけど、そうじゃない…現に私は今回のウイルスの一件で、かなりの不安を抱えているワケです。

この不安の構図については前回のブログ記事で書いた通りなのですが、今の状況に不安を感じている一方で、「ウイルスがもたらす症状そのもの」と、クロスオーバーしながらも交わっていない感じがするのです。

「不安」も「恐怖」も感じているハズなのに、何ゆえ今回のこのウイルスの一件で「ウイルスそのものに対しての不安や恐怖の認識が薄いのか」、その原因。
やはりそれは、圧倒的に視覚で認知する私の感覚が原因なのではないか…そこに行きつくのです、というのも…。

以前に私は、目に見えないことは私にとって理解しにくいことだというブログ記事を書きました。(2019/4/10「目に見える指示が必要です。」)


「目に見えないこと」は私にとって、とても理解しにくいことでして…。
例えば、幼稚園・保育園や小学校で「外から帰ってきたら手を洗う」って教わります。
この時、紙芝居とかで手に「ばい菌さん」が付いているのを石鹸で洗い流すって話を聞くのは誰もが一度ぐらい経験したことがあると思うんですよね。
私には、この「ばい菌さん」が見えないんですよ。

五感が「成長段階」に合わせて平均的に発達した「偏差値50の人」であれば、きっと目からの情報と耳からの情報を上手にミックスして紙芝居で教えてくれた内容を理解していくのでしょう…多分ね。
でも、私は強烈な視覚情報への偏りがある中で、必死で目に見える「ばい菌さん」をこの目で見ようと努力したのです。
そして、見えなかった。
大人に向かうに従って当然、その見えない理由も手洗いが必要な理由も「理論として」理解するワケですが、その理論と実際に行う手洗いがイコールで結びついているのか…と言うと疑問なのです。
そこには帰宅後にうがい手洗い、食事の前に手洗い…といった「ブラックボックス化されたルーティン」が存在するワケです。

おそらくこれが、ウイルスそのものに対して「不安」や「恐怖」に繋がってこない理由。
日常生活において、インフルエンザをはじめとする飛沫感染するような感染症対策以上の対応は基本的にできない。

その一方で私は、モノを介在させることで社会との接点を作ってきた私自身についてのブログ記事も書きました。(2018/10/31「モノがあると安心です。」)


感動を共有するためには、目に見えるモノが必要…。
その裏側に、モノが存在しないと社会と接続できない不安感があるってことです。
だから安心できる物理的に存在するモノが欲しい。
映画館で映画を見て、2時間後に手もとに何も残らない不安感はたまらなく痛い。

私はその記事の中でそう指摘したのです。

今回のウイルスの件で、私は偶々「不安を感じることに出くわした」のだと思います。
不安に思う項目はウイルスに関連して発生したことではあるけれど、ウイルス自体が不安や恐怖の「本丸」ではないのは明らかです。
ただ…ウイルス自体を不安に思う家族と、それが原因で先行きが不透明になった不安感を抱く私の、「不安というモノの共有」があったのかも…と思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2020/3/4

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