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Episode 407 状況とタイミングの問題です。

できることを基準にできないこともできる"だろう"と評価してしまう「見なしできる」という基準があるのではないか、それが結果的に「大人の発達障害」と呼ばれる成人してからの発達障害の診断が増える状況を作ったのではないか…そんな話を前回のブログで書きました

それに対して「見なしできない」もあり得るのではないか…?
というお話を頂いて、唸りました…「あるなぁ…これ」


学力から他の能力が推定されてしまう「みなしできる」が存在するとして、何かが壊滅的にできないときに全人格を否定されてしまう「みなしできない」があるような気がするのは、わたしの残念な記憶に基づく被害妄想だろうか。

前回のブログは、"私の経験"による「大人になってから発達障害と診断される」とは、どんなことなのか…を書いたワケです。
つまり、前提として「基本的にある程度社会的に適応できると判断されてしまった人が、大人になってから躓く原因として」の話です。
周囲の期待に応えるべく「ブラックボックス」という独自の短絡的思考回路を使って社会適合を目指すも、結局「帳尻合わせ」という"メッキ"が剥がれることで苦しむことになる…ということです。

ただ、どうやらそれだけではないらしい、例えばコレ…。

「電話番」という古くからある基本的なことが出来ないヤツに、そのほかの新しいことが出来るワケがない…。
発達段階が真円であると信じて疑わない「定型発達的な思考」です。
出来る側を評価して出来ない全てを引き上げるてしまうのが「見なしできる」。
その一方で出来ない側で評価して全てを引き下げてしまうのが「見なしできない」…ということでしょうね。

そう考えると「見なしできない」は…つまり「"メッキ"が剥がれる"状況"と"タイミング"」の話なのではないか、と思えてくるのです。
どのような状況で、どんな風に"メッキ"が剥がされるのか…?

話題の「認知特性テスト」をやってみた結果は予想通り…。

多分ですよ、あの図表のグレーの枠にハマる「標準」の感覚を持ち合わせていることが定型発達の真円なのです。
プラスにもマイナスにもハミ出す私の感覚が、定型から見たら「想定外」なのです。
どの「想定外」をどんな状況の、どのタイミングで見てしまうか?
それが「できる」なのか「できない」なのかの違いだろうと…。

この話は認知特性だけの話ではなくて、定型の方が自然に持ち合わせているであろう「丸く発達する」という感覚からの逸脱がもたらす「評価基準」の話なのだろうと思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2020/2/18

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