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Episode 306 失敗の容認が出来ません。

昨日のブログの中で私は「得意の中の不得意」という話をしました
得意なハズの言葉を上手く操れないもどかしさ、自分の思考に言葉がついてこない歯がゆさ。
話すほどに自分の本心からかけ離れていく会話に悔しさを感じるのです。

「書く」を中心とした一人語りの言葉は得意です。
時間は掛かってしまいますが、少なくても私自身で納得できる「意味のある言葉」を紡ぎ出すことは出来るつもりです。

それに引き換え「聞く・話す」が上手くいかない理由は、聴覚に過敏/鈍麻があって言葉の聞き取り能力が弱く、記憶や思考のパタンが独特だからだということは、既に何度かブログの中でお話ししてきました。
言葉を言葉として聞き取るには、それ相応の聞く体勢が必要で、しかも聞き取った言葉の意味はバラバラで断片的
それを映像化する脳内処理が必要で、但し…出来上がった脳内画像があなたの意図したものと同じとは限らないのはキャッチボールのボールを受ける話で説明した通りなのです。

その間にも会話は進みますから、会話のテンポに脳内画像処理が追い付かず、映像作品にならくて…精々、教科書の隅のパラパラ漫画か、写真が中心の電子アルバムかってところでしょうかね。
本当は…私は映画やドラマのような映像作品が欲しいのです。
パラパラ漫画では背景がなくて、写真には背景はあっても場面が止まっているから、前後のつながりがスムーズじゃないのです。
その足りない情報から急ごしらえの言葉を作り出すのに、「書く」と同じレベルが出せるワケがないのです。

そういう意味では、「書く」は私の意図することが書き表されているワケですよ。
もちろん、それを受け手であるあなたが「どのように捉えるか」次第なのですが…。

ASDの特性として挙げられるものとして「発達凸凹」があると思います
私もこのブログの中で何回かそんな話題を出してきました。
でも、何故この「凸凹」が発達障害の特性に関係するのか?
凸凹があることがどんな問題を起こすのか…って考えた時に、当事者側からの明確な答えが難しくてね。

定型側から見たら、きっと落差の問題として扱われるのでしょうね。
得意な分野の「できる」が突き抜けているから、日常的な誰でも出来ることに苦労する姿が不思議に見えるのかな…と。

ASDの凸の部分って、殆ど苦労する感覚がないのだと私は思います。
それが、私のようにブログ記事ひとつ書くのに1時間かかってしまっても、自己採点で常に100点を出すことは出来なくても、私自身が納得して公開するレベルには書き上げることは出来るワケですよ。
毎日1時間、PCに向かって文章を紡ぐ作業が「苦労」なら、一日一記事300日なんて続かないハズです。
それが…同じ言葉を使いながら、「聞く・話す」には苦労するのです。

私は、スムーズにできてしまうものがあると、スムーズにできないものに「焦り」や「イラつき」を感じるのではないか…と思うことがあります。
出来るものがあるからこそ、出来ないものに対しての劣等感を人一倍に感じてしまう…それが自信の無さに繋がったりするのではないか。
「出来る」が強いことで、出来ないことも「見なし出来る」にされてしまうことが苦痛だったのではないか。
定型側が「見なし出来る」で見るから、出来ないが不自然な「落差」に見えるのではないか、そう感じるのではないか。

得意と苦手の凸凹が大きいと、自分自身の中でも「上手くいく」から「上手くいかない」を見るようなことが起るのではないか…と私は思います。
それが、自分自身を苦しめるような気がします。

出来ないことを指摘されて、責められている様に感じてしまう裏側…。
自分自身もその出来ないことに焦りやイラつきを感じていて、そこを突かれる感覚…でしょうか。
そこを指摘されれば、ぺしゃんこに潰れたり、イラついて…それこそグズってしまうかな

「出来ない」を最初から「出来ない」というのには、勇気がいります。
諦めずに「やってみる」も大事なんですけど…。

失敗して「ごめん」てへぺろ…で済ますには、失敗に対しての寛容が大事なのだと思います。
それは、定型者がASD者に対しての寛容ではなく、ASD者の「自分自身に対して」の方が重要。
私も理屈では分かっているのですが…未だに拗ねてグズってしまうわけでして…。

旧ブログ アーカイブ 2019/7/17

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