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Episode 304 グズを成仏できません。

スーパーなどで買い物をしていると、ちいさな子がグズっているのを目にすることがあります。
何がトリガーになってグズっているのかは時と場合でしょうが、自分が子どものころを振り返って、グズった経験がない人は殆どいないでしょうし、もしも子どもを持つ親ならば、グズられた経験がない人も殆どいないでしょう。

ちいさな子にとって、グズるって最大限の自己顕示じゃないですか。
自己表現する手段が限られていて、上手く自分自身を表現できない…そのイライラ感がグズりの原因になっていることが多いのではないか…そんなことを感じることがあります。
大泣きする子もいれば、モノにあたる子もいるし、引率者にあたる子もいる。
グズるのは成長の過程であることで…でも実際にグズられたら大変。
周囲に迷惑だし、そのグズりを温かく見守ってくれる優しい方々ばかりではないワケです。

私はASDという発達障害を抱え、いい歳をしたオジサンになるまで自分の「グズ」を成仏させられていないのだと感じることがあります。

昨日のブログで「ちょっかい」を出すという、相手の気持ちを測るための手段についてお話ししました
それは「ちょっかい」という様子見の言葉を投げることで相手の反応を見て、私の物差しで相手の気持ちを推し測ろうとすることだと指摘しました。
実は「ちょっかい」には、それとは別の効果を求める大人気ない私が隠れていたりします。
私が怒っていると周りに伝えるためにビーンボール(危険球)を投げるという、「グズる」的で危険な「ちょっかい」があるのです。

言葉が苦手で、聞くも話すも得意ではない私は、現場合わせでの会話が上手にできません
それは、動詞も名詞も自在にズームして、全ての言葉の意味合いを調整する機能が弱いから、聞き取った言葉が限定的な意味になるためだと指摘しました。
それ故に、同じ小説を2回以上読み、同じドラマを2回以上見て、ひとりで黙々と文章を組み立てて自分の意思を表現するとお話ししました。

会話の中で発生する「上手く意思が伝わらない歯がゆさ」が、強硬な手段にエスカレートさせるということを起こしてしまうことがある…。
それは当に、子どもがグズるのと同じ理屈だと思います。
「違う、そんなことを言っているんじゃない!」
このイライラした気持ちを言葉に乗せて、避けないと危ないビーンボールを投げるようにあなたに投げつければ、
「なにケンカ売ってるの?」になるに決まっているじゃないですか。

子どもの「グズ」って、どんなにギャン泣きしても、怒られたくてやっているわけではないですよね。
私が投げてしまうビーンボールも、ケンカしたくて投げているワケではないのです。
極めて冷静にイライラを伝えている、私がどんな気持ちでいるのか周囲に伝えたい…。
子どもがグズるみたいな「ちから業」じゃない、これは「ちょっかい」で、チクリと刺す程度のイヤミ…。

ただ…
言葉が得意でないと自覚している私が、
相手の気持ちを察して上手く立ち回れない私が、
相手の気持ちを確かめるために「ちょっかい」を出すような私が、
チクリと刺す程度の「力加減」をコントロールできるわけもなく…。
直撃したら救急車で病院送りのような危険球を投げつけてしまうのです。
周囲から見れば、立派に「キレてる」大人…です。

ASDの私にとって、会話・コミュニケーションは難易度の高い分野です。
幸いにも、私には書くという自己表現する手段があって、冷静に言葉を紡ぎ出すことで、やり場のない怒りという感情を成仏させられるようになった、それ以降はビーンボールを投げる機会は減ったと思います。
でもまだ、完全に抑えられません。

ASD者の「キレる」の中身とは、子どもの「グズる」に近いものであるように思います。
ただ…コミュニケーションが弱く、本来は成長の過程で習得するハズの「グズの成仏の方法」が確立できない。
私自身を振り返り、そんなことを思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/7/15

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