見出し画像

認知症の妻に忘れられない夫になるために

介護の仕事をしていた頃、認知症という病が引き起こす様々な不幸を目にした。

ご飯を食べたことを10分後に忘れる。昨日仲良くなった友人を忘れる。今自分がどこにいるのか忘れる・・・。

記憶というのは人格を構成する上でとても大切な要素だ。考えてみてほしい。もし、自分が10分前のことも忘れるようになってしまったらと。

わたしたちは成長することを止めてしまうだろう。なぜなら成長というのは失敗や挫折といった経験に基づいて促進されるものだからだ。その経験を忘れてしまうのなら、成長のしようがない。

認知症になると、そこで人は変化を止めてしまうのだ。

それは何も悪いことばかりではない。家族に見放され、病気に苦しみ、ミキサーにかけられたご飯しか食べられなくなった自分を憐れむことすらも忘れてしまうのだから。

正直、認知症に救われているな、と感じてしまう人は少なくない。

自分の妻が亡くなったことを覚えていられず、「妻が待っているから」とリハビリに励むおじいさん。

息子からネグレクトに近い対応を受け、栄養失調で死にかけたことを忘れ「うちの息子は立派なんですよ」と優しく微笑むおばあさん。

それがたとえ事実と異なっていたとしても、彼らからその希望を取り上げることなど誰にできようか。

認知症とは、必ずしも悪いことばかり引き起こすものではないのだ。状況によっては神からの救いにすら感じることもある。

自分にとって都合の悪い記憶だけがなくなっているということも珍しいことではない。

私がとくに印象に残っているのは、夫の存在を忘れるおばあさんたちだ。

認知症になっても、よっぽど重症でなければ家族のことは鮮明に覚えているという人も多い。昨日会ったばかりの職員を忘れるような人でも、数年会っていない息子や娘のことは当たり前のように覚えているのだ。

それなのに、なぜか夫のことだけを忘れてしまう女性たちがいる。これは逆ではあまり見られない現象で、なぜか女性のほうが夫を忘れる場合が多い。

存在をすっかり忘れるというわけではなく、実際に会えば思い出すのだが、会わなければ名前すら思い出せないのだ。

一体なぜなのだろうか、と私はいろいろ考えた。けれど、認知症である本人に聴くわけにもいかないので、結局答えは出ないままだ。

それでも、あくまで個人的な偏見だが、私が見る限り少し共通点があるかもな、と感じるケースがある。

大正から昭和初期は亭主関白が当たり前だった時代だ。男は外で稼ぎ、家に帰れば飯と酒をかっくらい寝る。女性は家事と育児をほとんど一人でこなし、献身的に家庭を支える。そんな時代が、たしかにあった。

しかし、それが当たり前だったとしても、当時の女性たちはやはり不満を抱えていたという。おばあさんたちと話していると、夫への不満はよく聞く話題だし、不満を通り越して憎しみすら抱いている人もいる。

過去の女性たちは、その圧倒的な包容力で家庭の中にある理不尽をひたすら耐えぬいてきたのだ。

そんな時代背景を踏まえながら考えてみると、夫を忘れてしまう人はもしかしたら、夫がそもそも家庭にあまり関与していなかったからなのかもしれない。

自分の子供や孫のことは覚えていても、育児にも家事にも参加しなかった夫は存在が薄く、覚えるに値しないと脳が判断したのかもしれない。

当時の女性にとっては家庭こそが人生の主戦場であったし、そこに立ち入らない夫はもはや他人に近い存在だったのかもしれない。

これは私の偏見に基づいた考察だが、この経験から私は「自分は家事も育児も一緒にやろう」と固く決意している。

将来、自分の愛する人が自分だけを忘れてしまうなんて、そんな悲しい話はない。認知症になっても、「あなたと過ごした日々は楽しかった」と言ってもらえるような、そんな旦那になろう。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。