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花盛りを過ぎた私たちはどう生きるべきか

今から2年前、104歳を迎えたおばあさんに「人生で一番幸せだったこと」について尋ねたことがある。

おばあさんは認知症の影響で昨日のことも思い出せなくなっていたが、昔の記憶は驚くほどにはっきりと覚えている人だった。時には小学校に通う前の思い出も話すことがあり、それはおよそ100年前のことなのでいつも興味深く聞かせてもらっていた。

そんなおばあさんは私の質問に対してしばらく考え込んだあと、「やっぱり学生の頃かねぇ。純粋で何もかもが楽しかったよ。もう一回やり直したいぐらい」と話してくれた。

その時は、「このおばあさんにとっては学生時代が一番幸福だったんだなぁ」とぼんやり思っていた。ところが、他の高齢者の方々に同じ質問をすると、8割くらいの人が”学生時代”が最も幸せだったと答えた。

学生時代は自由で、自分らしくいられて、友達とたくさん遊べて、恋をして、というのが大まかな理由だそうだが、その感覚は私たちとほとんど変わらないように思える。

実際、私の周りにも学生時代に戻りたいと嘆く人は少なからずいる。

歳をとってからも一番の思い出は”学生時代”なのだという事実に、私は戦慄した。なぜなら、私はこの類まれなるコミュ障のおかげで学生生活をほとんど”ぼっち”として過ごしてきたからだ。

私にとって、学生時代の思い出は宝物のように愛でるものではない。むしろ排水溝に詰まった髪の毛のようなものだ。それがあるせいで水が流れず、悪臭が漂い始める。だからなるべく取り除く必要のあるものだ。

いつか歳をとって本当の意味で”ぼっち”になり、思い出に浸ることでしか心を支えられなくなったとき、私はあの暗黒の学生時代を宝物として愛でられるのだろうか。

いや、おそらく無理だろう。あれから10年以上の年月が経っているが、あの頃を思い出して得られるものは「コミュ障ぼっちだったなぁ」ぐらいの感想だけである。

そんな老後はいやだ。絶対にいやだ。

すでに人生で一番幸福な花盛りの時代を終えてしまった私たちは、果たしてどう生きるべきなのだろう。もうこの先「幸せだなぁ」と感じられる日々は到来しないのだろうか。定年後の預金残高のように、右肩下がりに幸せという貯蓄が目減りしていくだけなのだろうか。

いやだいやだ!

私はこれまで、「この先もっと良くなっていくはず」というプラス思考で生きてこられた。これまでの不幸は高く飛ぶためにかがんでいる時期なのだと考えてきた。

だから、私はこの先に人生のピークがあると信じて突き進んでいくほかない。「昨日よりも一つだけできることが増えた」という経験を毎日積み重ね、小さな幸せを集めて”幸せの大金持ち”になるんだ!

つい先日もそういうことを書いたが(下記記事参照)、これは私の中で目をそらすことが許されない、由々しき問題だ。

私たちは大人になるにつれ、徐々に何かを諦めていってはいないだろうか。自分の時間や願い、自分らしさを削ってただ”お金を稼いで生きる”ことにだけ執着していないだろうか。

いつか歳をとって今現在の状況を思い出した時、果たして幸せだと言えるのだろうか。

何かを諦めることで大人になれるのなら、私はいっそガキのままでいい。そもそもちゃんと子供らしい幸せな時代を送ってきていないのだから、これから送る気まんまんだ。

「昨日より今日、今日より明日」というごく当たり前のことをこなしていけば、きっと目の前の景色が開けると信じている。

ということで、今日は昨日やる気が出なくて挑戦しなかった豚の角煮作りに奮闘することにしよう。


大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。