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苦しみの原因ではなく、苦しみの目的にフォーカスする

聖書の話をしていると、たまに「聖書の神は愛だとか言うけど、じゃあなぜこの世界には悲しみや苦しみが存在するのか?」と聞かれることがあります。これは、完全に回答をできる人間はひとりもいない、究極の問いなのですが、現時点での僕の考えと、体験したことを書きます。

苦しみの目的

まず「なぜ苦難があるのか」という問いが、苦しみの原因を問うものなら、残念ながら僕には語れることがありません。このことは聖書に書いていないからです*。聖書に書いてあるのは、苦しみの目的です。

※聖書には苦しみの原因については書いていないのですが、「〇〇があったから苦難がある」というような、因果応報的な考えは明確に否定されています。

病者の祈り

ここで、日本語では「病者の祈り(A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED)」と呼ばれる、祈りを紹介します。ニューヨークのとある大学病院のリハビリテーションセンターの壁に掲げられている、作者不詳の祈りです。

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これを祈った人は「自分が願ったものは何一つ与えられなかった。むしろ与えられたものは、願ったものとは逆の、苦難と呼べるものばかりだった。しかし、その苦難があったからこそ、自分が願いはしなかったけど、心の奥底で本当に望んでいたものが与えられた」と言っています。

僕の体験談

僕も、この人と似たようなことを経験しました。以前書自己紹介や歌詞紹介の記事でも少し書いたのですが、2020年は僕にとってかなり苦しい1年でした。コロナの影響による環境の変化が大きく、何もかも上手くいかなくなり、無力感と孤独感で自分の価値を見失いかけ、最後は少し鬱っぽくなりました。

苦しみの中で、僕は環境が変化することを願いました。でも、それらは一切与えられませんでした。

しかしこの苦しみを通して、僕は自分の人生を振り返り、価値観の歪みに気がつき、軌道修正をすることができました。そして、かつての自分のように「自分には価値がないのではないか」と感じ苦しむ人に対する、深い憐みの心が生まれました。そしてそのために何をすれば良いかわかるようなり、一歩ずつ行動できるようになりました。

僕が願った環境の変化は与えられなかったけど、「聖書の言う通りに生きていきたい」という、心の深いところにあった望みが、少し叶えられたのです。だから去年の僕の苦難には、僕の生き方を変えるという目的があったのだと理解しています。

苦しみには良い目的がある

僕の昨年の苦しみとは比較にならないほどの大きな苦しみを抱えている人もいる中で、このようなことを僕が言うのは無神経と思われるかもしれませんが、それでも敢えて言います。みなさんの苦しみには、良い目的があります。苦しみの先にある良い目的のために、その苦しみを通らなければならないというものです。その苦しみは、決して、みなさんを苦しめるために存在しているのではないし、まして意味のないものなどではありません。

もし苦しみには何の意味も目的もなく、私たちはただ無意味に苦しんでいるだけだとしたら、そこには絶望しかありません。しかしそれは間違っています。「お前の苦難に意味なんてない」と思わせて、人を絶望に追い込もうとするのは、人の破滅を願う悪の嘘です。希望を失った人間は立ち続けることはできないから、悪は意図的にこのような作戦をとっているのです。

この主張の根拠

僕は迷信を信じているのではありません。世界で最も権威ある教えの一つと言われ、世界中で数千年の間伝えられてきて、現在も数十億人が信じている聖書の教えを根拠に、これを言っています。なので、少しは信じても大丈夫だと思います。

聖書の教えをいますぐ全部信じてほしいとは言いませんが、この苦しみには目的があると言う事実だけは、すぐに信じてほしいと心から願っています。そして、希望を持ち続けて欲しいんです。そうすれば苦難があっても、自暴自棄にならなくて良いし、絶望しなくて良いからです。

しかし、どんなに希望を持っていたとしても、苦難が辛いというのは事実です。聖書には、この苦難による辛さ自体に対する癒しについても記載されていますが、このことは今回は書ききれません。またいずれ書きたいと思います。

しかし、どんなに希望を持っていたとしても、苦難が辛いというのは事実です。聖書には、この苦難による辛さ自体に対する癒しについても記載されていますが、このことは今回は書ききれません。またいずれ書きたいと思います。

みなさんと繋がりたいと本気で思ってる

僕には、みなさんの苦しみを完全に理解することはできません。どれほど痛く、苦しく、悲しいのかわかりません。それでも、その苦しさを想像したいし、その苦しみの癒しのために祈りたいと願っています。だからもしよければ、みなさんの苦しんでいることを教えてください。

僕がみなさんの苦しみのためにできることはほとんどないかもしれません。でも、話を聞き、祈ることはできます。これほど嬉しいことはありません。なので、僕でよければぜひ繋がってください。

noteには個人メッセージの機能があるということを発見しました。もしよければ、こちらから連絡をいただけると嬉しいです。

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僕のクリエイターページ(https://note.com/hotaru_takada)の一番下にある「クリエイターへのお問い合わせ」ボタンを押すと、個人メッセージを送っていただけるとのことです。noteの公式情報もご参照ください。

みなさんの苦しみが和らぐこと、そしてみなさんが苦しみの中にあって希望を持ち続けられることを、心から祈っています。

聖書の言葉

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イエスの弟子たちは、当時の社会で一般的だった「人の苦しみの原因は過去の悪い行いにある」という、因果応報的な考え方を信じてました。でも、イエス・キリストは過去にある原因ではなく、未来にある目的を指し示したのです。非常に革新的な教えです。そしてその究極的な目的とは「神の業が現れるため」だと教えました。苦難を通して人は神に出会うのです。

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別の訳(新改訳2017)では「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と訳されています。 聖書は、我々は究極的には苦しみを喜ぶ者になれると言います。僕は一生かかってもそんな者になれるのか分かりませんが、なんとかこの練られた品性を養っていきたいと思うのです。

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僕は昨年苦しみの中にいたとき、この苦しみにどのような目的があるのかなんて、全く分かりませんでしたが「必ずこの苦しみさえも益になる」と確信していました。だから、すごく苦しかったけど、決して絶望することはなかったし、苦しさの中に不思議な平安がありました。この「信仰」と呼ばれるものを持つことができていたのは、僕にとって本当に大きな恵みでした。

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この言葉を語っている「わたし」とは、神です。我々が「この苦難に良い目的があるだなんて、とてもじゃないけど信じられない」と思うのは、ここに書いてあることが理由です。神と人では見えている範囲が全然違うのです。覚えておくべきことは、どのような事柄においても「我々が真実だと感じられない = 真実ではない」という式は、往々にして成立しないということです。

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「神は人に害を与えることを目的として計画をたてることはない」という事実は覆されることはありません。人のある時点での感情や感覚にかかわらず、神の永遠の視点から見れば、それは全て良い計画だと言われているのです。我々は耐えがたいと思われるような苦難の中にあって、このことを信じ希望を持つこともできるし、このことを否定し絶望することもできます。僕は今後の人生でどんな大きな苦難があろうとも、前者を選び続けられるように願います。


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