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父がモラハラ人間になるまで①

 家族の事を書こうと思う。父を加害者とした、モラハラの被害体験だ。

 noteで被害を訴える事に何の意味があるのか、私自身よく分からない。
 ただ、記憶の反芻と、それに対する思考を止められないから、その思考を整理し、形にしてみたくなった。形にできれば、何らかの結論とまではいかなくとも、納得には至るかもしれない。そういう期待をもって書いている。

 この体験が、誰に読まれるのかは分からない。必要とされるのかも分からない。毒親をテーマにしたエッセイとして、出版されている本の内容ほどには、たぶん深刻な事情ではないから、読んでもらえる記事にできるのか自信はない。

 しかし、人から見て、深刻な事態でなくても、その人にとっては重大に感じるような事は、あると思う。これから書く事は、私にとっては、無視できない出来事の数々だ。
 どうか一人でも、必要としている誰かに、この記事が届くことを願っている。



父の理想

 父は理想を家族に思い描く人だった。

 父が私に期待する理想の姿は、世間に出して恥ずかしくない娘であり、なおかつ、父を超えない程度に賢い娘だ。
 父が、母に対して期待する理想の姿は、自身の話をよく聞き、承認を与えてくれる女性だった。

 母は、その期待に応えなかった。父の期待に気付いてすらいなかったと思う。

 私には、父の求めているものが、よく見えた。父が自身に欠けているものを、家族に求めているのを、理解していた。
 きちんと言語化して理解していた訳ではないが、父が求めるものを、提供することが、私の役割なのだと思ってしまった。

 モラルハラスメントの被害を主に受けていたのは、母だ。私は、母の姿を見て、母のように、父から攻撃されたくないと考えた。
 だから、父の期待に応えた。父を超えない程度に賢い娘として、母が与えなかったものを、父に提供した。父の話をよく聞き、父を承認した。

 結果、私が狙った通りに、父の中で私の存在は大きくなった。「愛している」と、父から言われていた。

 母は、父から軽んじられるようになった。母のちょっとした行動を、父は馬鹿にし、母の発言が、父に重要視されることはない。
 これは、狙っていない。
 私の行動が、母の立場を悪くするとは、想像がついていなかった。

 それに、一側面では狙い通りになったが、私が望んだものは手に入らなかった。望んだものは、幸せとか、そういう抽象的なものであったと思うが、まあ、ともかく、幸せにはならなかった。

 父との生活の実態は、緊張感をしいられるものだ。父の機嫌を損ねないように、常に行動に注意を払い、父の言葉の真意をくみ取る必要があった。

 それだけ注力しても、母の言動が父の機嫌を損ね、家の雰囲気が悪くなることが珍しくなかった。共働きの両親が、同時にそろうときは、特にストレスを感じた。

 間違えた、のだと思う。私の対応は、父を家族に依存させ、そのモラハラ気質を助長した。

 現在、父とは暮らしていない。ここ8年くらい、連絡も取っていない。
 以下から、もっと具体的な話をしようと思う。

カバンの話

 両親は共働きだから、家事の分担は、はっきり決まっていなかった。
 そして、家賃ばかりが高く、綺麗だけど狭い集合住宅で暮らしていて、個人の部屋は与えられなかった。
 だから家族の互いの領域が、役割的にも物理的にも分かれていない。家族が在宅のとき、一人になれる場所はトイレかお風呂くらいだ。

 個人の部屋がなく、すべての物の配置は父が決める。父の決めたルールに従って、物を片付ける必要があった。
 母は物の片付けが苦手で、父はそれが気に入らなくてよく怒った。よく怒られたが、母は物覚えが良くなくて、父の指定した場所と父の気に入る配置の仕方を、なかなか覚えなかった。
 娘である私は、子ども故の柔軟さか、そういう適性だったのか、覚えられた。

 父の片付けの対象は、母や私のカバンの中身など、個人的な領域に及ぶ。
 父がランドセルの中身をいじる。私はその配置を覚えた。やがて、父が私のランドセルを開いても、確認するように触るだけで、何もしなくなった。
 それが何度か続いた後、私のカバンの中身は、父のチェックの対象からはずれた。
 母のカバンは、触られ続ける。母は、帰宅後にカバンの中身を整理する習慣がなく、父の片付けパターンを覚えられなかった。

 母が料理をすると、台所が汚れたままになることが多かった。汚した事に気づかずに放置してしまうのだ。父はそれも神経質に気にして怒った。
 やがて父は、母に「料理をするな」と命令するようになった。

 こうして、母は洗濯とゴミ出し以外の領域から、父によって締め出された。そんな父は、母の話によると、世間的には「家事を積極的にしてくれる良い夫」という評価だったらしい。

 父は、母の仕事の領域にもよく口を出した。ろくなことにはならないのに、母は仕事の愚痴を父にこぼすことがあった。すると大抵は、母の仕事での対応がまずいか、能力不足という結論にされていたと思う。

論理的なつもりの父

 母は、自身の感情をどうしてそう思うのか、何を考えてそういう行動をとったのかという事を、説明するのが苦手だ。父や私と比べると感情的な人で、ヒステリックな言動をする事がある。

 一方、父は理屈っぽい。学生時代に、弁論部に所属していたことを、誇らしげに話す。何もかもを論理で通そうとし、一見筋が通ったような理屈を強引に通す。

 論理に穴があって、そこを指摘したとしても、父がしたいのは、ディベートではなく、常に自分が正しいことの証明であり、相手が間違っているという主張である。こちらの意見は強い口調と論理的なふりをした屁理屈で、父が満足するまで否定され続ける。

 始めから結論ありきで、相手を言い負かしたいだけなのだ。この手の輩とディベートは成立しない。

 父の自意識は、理知的で論理的であるという自負で支えられており、そんな正しい自分に従わない相手は、論理的な話ができない馬鹿で、価値がないと決めつけているのだろう。

 母は、父の理屈が理解できなかった。受け入れられなかったとも言える。父の説教を聞く母の態度は、いつも頑なで、傾聴姿勢をとらなかった。目線を父と合わせず、姿勢は悪い。父の複雑な話に、返事をできず黙り込む。
 その態度が、父を余計にヒートアップさせ、同じ内容が言葉を変えては延々と繰り返される。

 私は、父の主張する理屈が、世間一般の常識で、理解しなければいけない正しいことなのだと、ある程度の歳になるまでは思っていた。
 父の意見はいつも強固で、理解している事を示さなければ、説教は夜になっても終わらなかった。

 私は、懸命に、そんな父の理解に努めていた。

逆転する立場

 母が何を考えているのかは、よく分からなかった。
 お箸は正しく持ちなさいとか、脱いだ靴はそろえなさいとか、そういう感じの常識を、母から教えられた記憶はない。
 後から考えると、放任主義的な教育観を持っていたようだが、当時の私は、母は子どもに関心がないのだと思っていた。

 母が父のする事に合わせないのも、不思議だと思っていた。今は、合わせないのではなく、合わせられなかったのだと理解しているけれど、当時は、何度も怒られるのに、どうしてそれを避ける行動をしないのか疑問だった。

 そうこうしているうちに、母は父から軽んじられるようになっていく。
 母は、父の決めたルールを守れない、能力のない人として扱われた。母の言葉はいつも取るに足らないもので、子どもである私の言葉の方が、父に肯定されていた。

 父から馬鹿にされる母の姿を見て、私はだんだんと、父の言う事は正しいから守らなければいけないのではなく、父の言う事を聞かなければ、人として扱ってもらえないのだと学習した。

 そこに正しさを求める姿勢はもうない。
 私は、ただ声が大きく力の強い父に、母のように扱われないよう振る舞った。

 その振る舞いが母子の立場を逆転させる。母は頼りにならない未熟な存在として扱われ、父が私に「あの人をちゃんと見ておいてあげないとダメだよ」と言った。
 やがて、父にとって気に入らない行動を、母が起こすと、「どうしてちゃんと見ておかなかったの?」と、父は私に責任を追及するようになった。

 当時、自分の行動原理を、はっきりと意識化できていた訳ではない。家族という狭いコミュニティーの中で、サバイブしていく方法を本能的に選んでいただけだ。その方法が母の立場をより悪くした。

 後から考えると、私にとっても望むべき結果にはなっていなかった。私は母親でも妻でもないし、母親にも妻にもなりたくなかったのだから。

次回につづく


 長くてしんどいので、いったん終わりにして、続きはまた書きます。
 現時点(2024/06/28)で、この話がどこまで続いていくのか、私にも予測ができません。よかったら、フォローしていってください。
 よろしくお願いします。

 続きの記事できました↓(2024/07/05)。


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