遥か遠い国で作ったお寿司
今から遡ること20数年前。
同じ職場で付き合っていた恋人に海外転勤の辞令があった。
程なくして彼からプロポーズを受け、2ヶ月後には彼は赴任先へ着任。
会社の規定で私は、遅れること3ヶ月、翌年の晩冬に、日本から遥か遠い国に向かった。
英語も通じない、何もかも戸惑うことだらけの世界で新婚生活、駐在員の妻としての生活がスタートした。
料理、しっかり習っておけばよかった
情けないことに、私は結婚を機に実家を離れるまで
まともに料理を作ったことは皆無に等しかった。
夫と私が過ごした国、都市のような日本人コミュニティ規模、国内の治安、安全性が十分とはいえない場所において、当時私達は、ただ妻として夫の食生活を支えるのみならず、支店長宅で行われる接待パーティーのために手作りの料理を持ち寄る必要があった。
その料理は、コースの如く前菜からデザートまで、何種類も、何十人分も、分担して持っていき、
支店長宅で皿に盛り付けるものだ。
そして、日本人コミュニティにおいても、
いわゆる 奥様同士のお付き合いでも、お互いの家に招待することが常だった。
「ランチにご招待します」ということは
お昼だけ用意すればいいのではない。
状況に応じて、ランチに合わせた食前酒を用意することも必要だし
ランチも、前菜、メイン、デザートの順番に提供する。
お茶も、緑茶、ほうじ茶、ハーブティ、コーヒー。
お茶うけの焼き菓子も用意することが前提だった。
もちろん全て手作り。
私が向かうことになる土地で、そうした接待や
日本人コミュニティ内の奥様同士のランチ、お茶会が必須なことは、やはり不安だった。
料理、母からでもしっかり習っておけばよかったな。
もちろん出発までまだ残された時間で母から教えてもらうことも沢山あるかもしれないが
気持ち的には、二学期が始まる前に溜め込んだ夏休みの宿題に焦るような感覚だった。
無謀ながらも通い詰めた料理教室
そんな私は、退職までの準備、引き継ぎの合間をぬって、渡航準備に追われながらも、無謀にも料理教室に通った。
習い事の雑誌で色々調べて、大手ではなく、敢えてこじんまりとした小さな規模の料理教室にした。
その教室のカリキュラムにあった、結婚を控えた女性のための一年コースというものがあった。
おせち料理から、ローストビーフまで一年で作るカリキュラム。
これを何とか詰め込んで2ヶ月以内でできないか、スタッフの方に事情を話して懇願した。
普通なら、そんなの無理です、ダメです、で終わると思っていた。
でも、ありがたいことに、教室側も、担当の先生達も快く了承してくれた。
事情は私とは違えど、何とか2ヶ月以内でお願いしたいと言っていたもう一人の女性が居たからだ。
その女性は、ずっとご両親の介護をしてきて、その年にご両親を看取った。
50歳を超えて初婚の彼女は、もう実際にご主人になられた方と同居しているが、これまでご両親の食事は病人食の宅配を取っていて、自身は適当に済ませていたため、結婚を機にしっかり料理を習いたいと思ったそうだ。
そんな彼女と私。共に新婚(といっても、私の場合、夫は先に赴任先へ着任しているが)の二人と先生の怒涛のカリキュラム。
お互い忙しい中をぬって通っていたが、純粋に料理を習うことは楽しかった。
☆
忙しいし疲れている日々。それでも教室に通うことはある意味では私の気分転換、更には癒しになっていた。
どんなに疲れていてもその日作ったメニューは
もう一度、帰宅してからおさらいして作った。
両親や妹にとことんダメ出しもしてもらった。
今思うと、本当に短い期間だったけれど
料理教室に通い、そのおさらいをして、
忖度ない意見を家族からもらえたことはとても貴重な経験だった。
赴任先で駐在員妻としての生活を始めるにあたって
とても役に立った経験でもあった。
この経験がなかったら。
今の時代のように クックパッドや、SNSでの料理研究家さん達のレシピ紹介なんてあるはずもない時代に
料理を作る上で、失敗することも大事だということ、そして厳しい意見を聞くことも、上達する上でとても大切だと実感できなかったからだ。
☆
本来なら、一年通して行われるカリキュラムを2ヶ月以内に詰め込んで通ったお料理教室。
そして、母からのアドバイスや、父、妹からの時には感想。
出発前に怒涛のスピードでこなしてきたけれど
おかげで私は何の不安もなく、出発できた。
そして嬉しいことに、その間に副産物ができた。
料理を作ること、それを食べてもらえることは楽しいと改めて気づけたことだ。
駐在員妻としての日々
未だによく聞かれることがある。
「駐在員妻って大変でしたか?」
私は正直に答える。
「そりゃーもう、大変でしたよ。でも楽しかったですけどね。」
一口に海外転勤、駐在員、駐在員妻と言っても
国や地域、期間、そして旦那様の会社によっても異なるので
一概に同じわけではない。
現に、私の同期、先輩で同じく社内結婚をして、同じタイミングで海外転勤した夫妻が何組かいるが、
当時お互いの近況を報告していても、国、地域によって全く違っていた。
「私もほしまるみたいに、支店長のお宅に食事持ち寄るパーティーしたい」とか
「奥様同士のランチやお茶でも手作りのもので招待し合いたい」なんて言っていた同期もいたけれど
当時の私からしてみれば、頻繁に支店長宅での接待パーティーがあったり、招待し合うお茶会はあらゆる意味でしんどかった。
そして、夫の仕事の関係で単身赴任や出張できた人たちを家に招待することもよくあったが、
二人分作るのも、四人分以上作るのも同じといえど
やはり、夫が仕事の延長上でお呼びしているからには、私自身も打ち解けていても常に緊張感はあった。
「美味しいですね!」
「おかわりいただきます!」
仮にそれがお世辞かもしれなくとも、そういう一言があると心からほっとした。
ありがたいことに、おもてなし料理に関しては
メニューが決まると夫に試食をしてもらうことも常だったが
夫も忖度なく素直に感想を言ってくれたので
励みにもなった。
だから、支店長宅でのパーティーでも
我が家でのおもてなしでも、終わるといつも夫はお疲れ様、と労ってくれた。
そして、何よりも、
日本のように常にライフラインが保たれている国でない中で
無事に担当分の何十人分もの料理を作り終えたり
我が家での奥様同士のランチ、お茶会が終わるまで
停電も断水もせず滞りなく終わった時には
心から自分を褒め称えた。
なぜなら、おもてなし料理を準備している時に停電や断水に遭い、泣きそうになったことが多々あったからだ。
お寿司がないなら作ればいいじゃない♪
夫の転勤が決まった時に、会社の総務から配布された薄い冊子があった。
今だから言える話だが、
「これ、いつの時代の話よ!?」
とツッコミたくなるほど、私達が過ごす予定の国、都市の、アップデートされていない古い情報が書かれていた。
しかし、当時はそれを信じるしかなかった。
例えば、
「魚屋は皆無なので焼き魚はおろか、刺身、お寿司なんて食べられるわけもない」
とか。
実際は、魚屋はふつうに当たり前に存在していた。
しかも我が家のアパートメント(マンション)の隣が魚屋、というなんともありがたい立地だし
隣の国からの直送の新鮮な魚や魚介類も手に入った。
しかも、日系人が営むお店で、お刺身を二人前から注文することができたので
私たちも時々利用していた。
☆
通りを挟んだ向かいにお肉屋さん、小さなスーパー。
隣には魚屋さん、
そして少し歩いた先にはチーズやハムの専門店、八百屋さん
と、普通に買い物をする面でも私達が住んでいた一角はかなり便利だった。
しかも、夫がこだわってくれて物件を選んでくれたことの一つとして
日本人が近くにあまり住んでいない区域だったので
買い物途中にばったり、ということもほぼなかった。
けれど、やはり、20代前半という若さで来た私を
社内の駐在員妻達も、社外の駐在員妻達も放ってはおかなかった。
なんとかして、自分の味方につけようと、
着任早々、お誘いは絶えなかった。
中でも、少し特殊な形で、私にじわりじわりと頻繁に近づく、社内の奥様がいた。
☆
大抵、皆さん電話などの前触れもなく我が家までいらっしゃる。
いきなり我が家のアパートメントの下からインターホンを鳴らし、名前を告げる。
またか...と思いながらも、一応招き入れてお茶を入れる。
雑談から、必ず、◯◯さんのことどう思う?などと
その場にいない人の感想を求められる。
それが一人ではなく次々やって来る。
習い事や、ボランティアなど、自分のスケジュールが確立するまで
皆から「ほしまるさんは暇」と認識されている間は本当にキツかった。
中でもちょっと変わったYさん。
彼女はいつも、こちらが頼んでもいない料理のレシピを紹介しにやって来た。
今にして思えば、彼女も異国で寂しかったのかも、と理解できるが
当時は、大して必要でもない料理のレシピを紹介しにくる迷惑なおばさん、としか思えなかった。
ある日、彼女は、袋に沢山野菜を持って来訪した。
よいしょ、と、その袋をテーブルに置いて
喉がよほど乾いていたのか
私が入れた紅茶を一気に飲み干してからこう言った。
「ほしまるさん、こちらに来てからお寿司召し上がった?」
まだ来てから1ヶ月も経っていない頃だった。
お刺身を注文できるお店の存在はなんとなく耳にしていたが、まだ情報をきちんと聞いておらず
利用したことはなかった。
「お寿司は...まだ食べてないですね。」
Yさんは、待ってました!と言わんばかりに目を輝かせた。
「お寿司、ここだとなかなか食べられないのよねー!
だ・か・ら♪お寿司がないなら作ればいいじゃない♪」
なんとなくメロディに乗せたような口調で嬉しそうに話すYさんを見て、
「はぁ...」と言うのが精一杯だった。
今のこの人の頭の中はマリーアントワネットなのだろうか?
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない♪」と言ったマリーアントワネット。
こちらの了解も取らず、いそいそとキッチンへ向かって、もう既に野菜を洗い始めているYさん。
もうこうなると彼女の独壇場だった。
「あのね、びっくりするくらい美味しいマグロのお寿司作るから。見ててね。」
もう私は返事すらしていなかった。
彼女は洗ったパプリカを、丁寧にお寿司のネタより一回りくらい大きな大きさに切った。
そしてそのパプリカをオープンで焼き始めた。
しばらくすると、パプリカの表面が焦げだしてきた。
「そろそろいいかな♪」
彼女はオープンからパプリカを取り出した。
「さて、問題です。このあとこのパプリカをどうするでしょう?」
うわー、今度はクイズ仕掛けて来てる...
「皮をむく、とかですか?」
「せいかーい♪」
げっ。当ててしまった。
粗熱をとったあと、Yさんは手慣れた手つきでするすると皮をむきはじめた。
「見て、これ、マグロに見えない?」
驚いた。確かに、パッと見はマグロの刺身だ。
「このまま握った酢飯に乗せて、お醤油で食べても美味しいし、バルサミコとオリーブオイルに浸けてマリネみたいにして食べても美味しいのよ。」
ほほー。
一応、教えてくれたYさんのためにメモを取った。
「じゃあ、これ、あとで食べてみてね。残りのパプリカも置いていくから、こんど作ってみて♪」
Yさんはそのまま帰ろうとするので、パプリカの代金を聞いてすぐお支払いした。
Yさんは帰って、まだ袋に残ったパプリカと
マグロのように見えるパプリカがテーブルに置かれたまま。
私はそれを一口食べてみた。
マグロに似てはいるけれど、やはり私にとってはパプリカだった。
このまま捨ててしまうのも躊躇われたので
バルサミコ、オリーブオイルなどに浸けてみた。
なんとなくマグロっぽいパプリカ。
冷やして、お昼に一人で食べた。
なるほど、こんなマグロパプリカはありかもな。
積極的に作ることはしなかったけれど、パプリカが余った時には、パプリカお刺身にして一人で食べるお昼のお供にしていた。
☆
あの時のパプリカ寿司がまさか...!
数年前のある日、たまたまテレビを見ていると
「いろんなお寿司を作ろう!」的な番組で
変わり寿司のレパートリーを紹介していた。
すると比較的若い主婦の方の投稿レシピが紹介されて、私は思わずびっくりして飲んでいたお茶を吹き出した。
映し出されたのは紛れもなく、二十数年前に
Yさんから教わった、パプリカ寿司だった。
なんでも、パプリカ寿司、その当時で既にヘルシーだとかマグロっぽい!とか話題になっていたそうだ。
テレビの紹介を見ながら、スマホでSNSを検索すると確かに数多くのパプリカ寿司が出てきた。
あの時、異国の地で
「いや、確かにマグロっぽいけれども、ね。」なんて心の中でツッコミを入れながら一人で食べていたYさんレシピのパプリカ寿司。
まさかまさか時を経て話題になる日が来るとは。
面白いな。
純粋にそう思った。
あの時Yさんは、マグロが食べたかったからマグロっぽいお寿司をパプリカで作った。
お寿司をまだ食べていない私に食べさせようと一生懸命だったんだな。
そう思うと、ただの迷惑なんて思っていたことも私にとっては改めて笑い話になった。
☆
パプリカ寿司に限らず、今の時代、当たり前のようにクックパッドなどに紹介されているレシピたち。
そのレシピたちは、レシピを載せている人たちにとって決して一朝一夕で出来上がったものではないかもしれない。
いろいろ試してみて、出来上がって、この美味しさを伝えたい、そうしてシェアしている人たちが沢山いると思うと、
料理の世界って本当に面白いし楽しいな、と思う。
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