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交差とことば

詩人の最果タヒさんのブログを読んで、感じたこと、思ったこと、考えたこと、みっつ。

ひとつめ。好きになること。

わたしも10代の頃とか、好きだったはずのアーティストとかで、なんかこれ好きじゃないぞってなったとき、すごく無理してしまって、なんとかファンとして振る舞おうとして、自分が悪いような気がしたり、感性が鈍ったのかとか思ったり、いろいろ相手を心配したりしたんですけど。何もかも好きでなくても、最新もすべて好きでなくても、相手の変化を受け入れられなくても、「好き」と思ったときの「好き」は、ずっと永遠です。作品はずっと残り続けるから。

これ、すごく共感できる。
私は、音楽も文学も演劇もアートも、心惹かれるものがたくさんあるのに、「これが好き!」と声に出すことをしんどいと感じている時期があった。
それは「今は好きだけど、いつまでも好きとは限らない。このアーティストのこの作品は好きだけど、次の作品は好きとは限らない。」ということが経験的にわかってきた影響。
ただ「これが好き」と言うことに、「やめるときも健やかなるときも」って永遠の愛を誓うような、そんな重みを勝手に感じてしまって。
それには、昔は好きだったけど今はそうでもないものの存在感がのしかかっている。心変わりに対する懺悔のような気持ち。

でも、その瞬間に「好き」と思ったということは絶対だし、その痕跡はずっと残り続ける。誰にも、自分にも、否定できないもの。
最近はそう思えるようになってきた。


ふたつめ、奇跡的な交差のこと。

好きだと言ってくれていた人たちが「今のはそんなに」っていうのは、そりゃさみしいことだけど、でもむしろ一瞬でも好きだと思ってくれたことを私はすごいことだって感じる。奇跡的な交差だと思っている。他人が書いたものを「いいな」って感じるってすごいことだよ。ありがたいです。

交差。
そう、好きなもの、心惹かれるものに出会うのは、本当に奇跡的な交差だ。
今の自分とその何かが出会って、自分の中で何かが起こること。
何かを感じることは、全部交差なんじゃないかと思う。
その日の朝の空気を嗅ぎ取ることも、誰かの言葉に心動かされることも、耳に入ったメロディに呼吸のリズムを変えられることも、寒い日に食べるうどんに肩の力が抜けることも、子どもの頬にふれてじわじわ胸が温まることも。
ふわっとしてキラッとした交差。

その交差は、掴みどころのないことが多い。でも、消えてしまうんじゃなくて、自分の内側には残り続ける。
その存在は、大きな岩のこともあるし、さらさらの砂粒のこともある。
それらが集まって結晶になることもあれば、小さな一粒でも最初から宝石のこともある。
気づかないうちに積もっていく。
積もり積もって、自分を構成するものになっていく。


みっつめ。書くこと、ことばにすること。

わたしは書きたいように書くし、書いたら書いただけ言葉は蓄積されていくから、変化は自然発生的に起きていく。私はその変化に驚かされるのが楽しいから、まだ書き続けている。変わらないなら、新たに書く意味もないし、退屈すぎる。むしろ、作り続ける人間が、過去と変わらなかったらそれは偽りだと思う。

今の自分が書くことで、書いたことばから自分の変化を知り、驚く。それは楽しいことなのだ。
私はnoteやTwitterや手帳やらに、日々様々な形でことばを吐き出している。それは誰かに求められているわけではないけど、自分が自分を知りたくて書いている。

私はコーチングのコーチという仕事をしている。それはクライアントの内面をことばに出していく仕事。

ただ受け止めたり、問いかけたり、鏡のように映し出したりしながら、クライアント自身に自分のことをことばに出してもらう。
その時に、私は「交差を探している」と感じている。
今、私とあなたとの間で起こる交差から、ずっと深く潜っていったところにある、積もり積もったあなたの交差たち。
すっかり忘れてしまっていたり、そもそも気づいていなかったり。
そんな交差もあるけれど、そこに絶対交差はある。
だから私は鼻を利かせて交差を探り、見つけた交差をクライアントと一緒に確かめる。
この交差は何なのか?ことばに出してみて確かめる。

これは今書きながらふと思いついたことだけど、そうやってことばに出してみて確かめることは、ひょっとすると地図を作る作業に似ているのかもしれない。
自分の今とこれまでとこれからを記す地図。生きながら作り続ける地図。
これは、もうちょっとじっくり考えてみたいこと。

今の自分が話すことで、話したことばから自分の変化を知り、驚く。それは楽しいこと。
そりゃ、時には知りたくない自分を知ってしまうこともあるんだけど、それでも知ることは楽しいこと。自身の経験やクライアントの様子から、そう感じる。
そして、あなたの中の交差を探すことも、それをことばに出して確かめることも、そうやってあなたと世界のことを少しだけ知ることも、私にとっても楽しいこと。
だから私はコーチの仕事をしています。自分が楽しいからやっています。


おまけにもうひとつ。書いたものを放流すること。

自分のために書くことばを、日記帳や手帳の中に秘めておくのではなく、noteやSNSなどのオープンな場所に置くこと。
そこから自分は何を求めているのだろう。
インターネットにことばを流すことは、ボトルメールに似ている。
私は、どこかの誰かと交差することを、やっぱり期待しているんだろうな。

そんなことを思い巡らせたよ。

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