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【イスラエルの思い出】藤子不二雄Ⓐ先生とルネ・マグリットとぼく

哀しみのオンエア

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番組の放送中に「緊急ニュース速報」が入ったりするのは、制作者にとってはわりと悲しいことなのです。
 
どれだけ画にこだわり、ナレーションや音楽にこだわり、細かく細かく番組を作っていったか。「今のテロップ、グラデとシャドウ入れて、ちょっと小さめで左寄せで!」「SEのタイミング、15フレ下げれるかな?」なんてことを繰り返して1回の放送番組が作られるのです。

撮影の時点でだって、満足いくまでカメラマンに撮り直させることだってしばしば。現場が多少険悪なムードになっても、オンエアの方が大事だから、撮れるものが撮れるまで粘らなければなりません。そういう仕事なのです。

だから・・・

そうして大事に積み上げて行った番組の世界観を全部ぶち壊してしまう「緊急ニュース速報」、入って欲しくないのです。凝ってこだわって作った番組の時ほど。内容に自信がある時ほど。何もなく無事に放送を終えて欲しい!と願っていたりします。

ぼくはそういう制作者です。

災害とか大事故、起きないで…。要人、死なないで…。

あと、どこかのどうでもいい県知事の繰り上げ当選レベルのニュース。それ緊急速報する必要ありますか?(あるんですよね。失礼しました。)

緊急の出来事があったら仕方ありません。

今起きているニュースを伝えるのが放送局の役目です。ぼくらの作った完パケ番組よりも報道を優先させるべきですよ。番組の途中で報道フロアに切り替えられるなら、それはそれでいいんです。そん時ゃ、ぼくらの番組は後日改めて頭から放送されるんですから。気持ち的に許せます。許す・許さないじゃないけど、許せる。ちゃんと見てもらえる機会が残されているのは救いなんです。
 
だけど、救われない時もまれにあるんですよ。

L字放送

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ぼくは30歳の時にテレビ制作者として早くも「夢を叶えた瞬間」がありました。

取材をし、編集して、音楽とナレーションが入り、大満足の出来になってテレビ局に納品して「あとは放送するだけ」の数日間。もう番組制作の仕事を辞めてもいい!と思うくらいの達成感を味わっていました。大好きだった人に会い、行きたかった場所に行ってきたのです。自分の企画で、です。その時これ以上ないほど満たされていました。
 
本放送までは……

(ここから話はぼくの幼少期へと遡ります)

憧れの藤子不二雄Ⓐ先生

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小さい頃は、FとⒶの違いも分からず、『ドラえもん』『パーマン』『ハットリくん』『プロゴルファー猿』なんかをアニメで見て育ち、少しずつ、Ⓐ先生の『笑ゥせぇるすまん』をはじめとするブラックユーモアシリーズや、F先生のSF短編にハマっていきました。

当然、Ⓐ先生の『まんが道』は聖書に。

藤子先生を入り口に、トキワ荘の漫画家は皆大好きになりました。霧島昇の「胸の振子」が流れたら条件反射的に映画『トキワ荘の青春』を思い出します。今も営業しているラーメン屋「松葉」にも、もう何度も行っています。Ⓐ先生のご実家の氷見市の光禅寺も訪ねました。Ⓐ先生が生み出したどのキャラクターよりも、Ⓐ先生が好きです。人柄に惚れておりました。

そんな憧れのⒶ先生が、何度も作品の中で引用する「画家」の存在がありました。

ルネ・マグリットです。

《ピレネーの城》

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藤子不二雄Ⓐ先生は、ベルギー出身のシュルレアリスムの画家ルネ・マグリットがお好きなのです。

中でも、城の乗った巨大な岩石が海上に浮かぶ絵画作品《ピレネーの城》がお気に入りで、度々マンガのモチーフにされていました。

『魔太郎がくる!!』でも登場しますし、『マグリットの石』はⒶ先生ファンなら誰もが知る傑作短編。ぼくはⒶ先生の『マグリットの石』を読み、画家マグリットを知り、いつかこの絵を見てみたい!と強く思うようになりました。

しかし、結構早めにあきらめてしまいます。

簡単に見られる所にはありませんでした。

イスラエル国家の至宝

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マグリット作《ピレネーの城》は、イスラエルにあったのです。絵の所有者だったユダヤ人の富豪がここに寄付した経緯がありました。

「聖地エルサレム」のあるイスラエル。世界的なパワースポットとしても知られていました。どんな所か、一度は行ってみたい!でも、簡単に行ける場所じゃない。紛争とかもあって、ちょっとこわいし。なので《ピレネーの城》の実物を見たいって気持ちにはそっと蓋をして、いつしかそんな事もすっかり忘れておりました。

それからしばらく経ち…27歳の冬。ぼくは美術番組のディレクターに抜擢されます。

次第に海外ロケも任されるようになり、3ヶ月に1度パリに行くような日々を送るようになりました(これは事実ではあるのですが、自慢っぽく聞こえてしまいます)。ですが、自分の担当回の放送が終わる頃には、次のロケを仕込んでおかなければいけない自転車操業。全然まとまった休みなんてありません。

番組に慣れてきた29歳くらいの時には撮りたい「要素」だけ箇条書きでコーディネーターさんにお願いして、台本も書かずにパリへ飛び、30分番組をアドリブで作るようにまでなりました。ドラマパートもあるのに、ホントよくやってたと思います(事前に役者と撮影場所だけ仕込んでおいて、前日の夜に宿で脚本・絵コンテを書いたりしていました。)

そんな慌ただしい日々の中、ふと思い出したのです。 

あ、イスラエルって行けないのかな?

企画したら、通った!

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ルネ・マグリットで最も知られる作品《ピレネーの城》を番組のテーマにしたい。ついてはこの絵がイスラエルにあるので撮影に行きたい。それを企画書にしたところ、「いいんじゃない?気をつけてね!」と、トントン拍子にGOサインが出てぼくはイスラエルに行くことになったのです。

どうせ行くならもう1ネタ撮ってきてよとリクエストされ、ユダヤ教のシナゴーグにあるシャガールのステンドグラスも撮影することになりました。

フランスとベルギーでそれぞれ周辺取材をして、パリのシャルル・ド・ゴール空港からイスラエルのテルアビブ空港に入ります。イスラエル滞在は3泊4日。メンバーは僕とカメラマンとVE(ビデオエンジニア)の3人です。現地では日本人のコーディネーターさんが様々な取材先を手配してくださいました。

聖地エルサレムに大興奮

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ユダヤ教、キリスト教、イスラム教全部の聖地「エルサレム」。

城壁に囲まれた旧市街は映画のセットのよう。その中を、ダイヤモンド商人でお馴染みの髭を生やしたユダヤ人、顔を隠したイスラム教徒、キリスト教の巡礼団、銃を持った若いイスラエル兵士の男女など、様々な人が歩いている。それだけでめちゃくちゃ面白い。

主食に近いのが「レンズ豆」で、どこのレストランでも出てくる。これが舌に合いました。取材が楽しい。

イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道「ヴィア・ドロローサ」を進むと、イエスが眠る「聖墳墓教会」があり、イエスの亡骸を横たえたベッドがあります。巡礼団が泣きながら触る聖遺物。ぼくも当然、何かのパワーが得られるのではと勝手なご利益を期待して触ってきました。なでなで。

ユダヤ教徒の聖地「嘆きの壁」も鼻息を荒くしながら、スリスリ。当日はちょうど、ユダヤ教の成人式「バル・ミツバー」が開催中。その場で交渉してもらい、ニューヨークから来た一家を撮影。少年が本当にいい顔をしておりました。

シャガール作品があるとのことで、イスラエルの国会議事堂にも行かせてもらいました。本当に、撮影じゃないと絶対に来ない場所を次から次へと巡る大興奮の3日間でした。

お目当ての作品も無事撮影

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写真は同期のVE、武田くんです。

イスラエル博物館で、お目当てのマグリット《ピレネーの城》を撮影。来館者が誰もいない状況でじっくり絵と向き合う事ができました。なんという贅沢な時間!この博物館では、20世紀最大の考古学的発見と言われる聖書の写本「死海文書」も展示されていたので、それも撮影させてもらいました。

様々な撮影を終えて、さぁイスラエルからパリに戻るぞという段になって、大問題が発生します。

日本のパスポートは万能じゃない

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写真は、空港でぐったりとするぼくとカメラマン。

イスラエル取材を終え、パリに帰ろうとテルアビブ空港の手荷物検査に回った時、問題が起きました。我々の荷物に対して、空港の検査官がやたらとしつこいのです。

原因は、2つのキャリーバッグに3人分の荷物を分散して入れていた事にありました。

「このバッグは誰のだ?」と聞いてきます。「我々3人のです」と答えます。
これが通じない。

仕方ないので、「ぼくのです」と言う。するとバッグを開けさせられて、服だとか私物を指して「これは誰のだ?」と聞いてくる。それぞれ、ぼくだったり、カメラマンだったり、VEの物だったり。それでいちいち怪訝な顔をする。

機材もそれなりの量あるし、飛行機の荷物の輸送費って結構かかるのです。高いんです。だから、我々は少しでも荷物を少なくしたいと思い、2つのバッグに3人分の荷物を分散して入れていたのです。だけど、その理屈が通じない。
 
完全に怪しまれて、一番怪しい風貌だったのか、VEの武田くんは別室へ連行。戻ってくるや「全部、服を脱がされたよ」の言葉に青ざめました。

さらに検査官は「カメラを解体して検査させてほしい」と言い始めます。「カメラはカメラだよ!」とこちらもややキレ気味に、カメラにバッテリーを入れ、テープを入れて、ちゃんと映像が映るただのカメラであることを証明したりしました。

そんなこんなで予定の便に乗せてもらえず、空港で次の便まで5時間近く待たされることに。その日パリでは別件のインタビュー取材を申し込んでおりましたが、時間的に無理だったのでフランスのコーディネーターさんに撮影をしてもらいました。
 
ぷんすか、ぷんすか。

なんでこんな目に!

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全く無知でした。

空港のマクドナルドをかぶりつきながら、ネットを引いて愕然としました。

1972年に、この空港で日本人がテロ事件を起こしていたのです。乗降客を中心に26人が殺害され、73人が重軽傷を負っていました。「テルアビブ空港乱射事件」です。事件の詳細を知れば知るほど、あの検査官が執拗になる理由がわかりました。
 
また、ビデオカメラ型の銃や爆弾があるんだそうです。取材を装って近づいて、バンッ!という。だから、分解して検査したいなんて言う。そりゃあ調べたくなるのもむべなるかな。
 
よく「日本のパスポートは最強」みたいな事を聞いていましたが、全然そんなことはない。日本人であることで睨まれる状況をしみじみ味わいました。あと、この時ばかりは日本人であることを恥ずかしく思いました。

もう一つのハードル

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空港検査で嫌な思いをしたのも、ある意味で貴重な経験。ポジティブに捉えて、面白い番組を作らなければと気持ちを新たにいたします。

ぼくにはこの番組でもう一つ実現したい事がありました。

藤子不二雄Ⓐ先生にご出演頂きたかったのです。先生にマグリット《ピレネーの城》の魅力を語っていただきたいと思っておりました。

実はこの企画にGOサインが出てすぐ、イスラエル取材を準備している頃、同時に藤子先生にも取材依頼をしていたのです。しかし、イスラエルに行く前、スケジュールの関係で藤子スタジオさんからは「取材NG」の返信が来ていました。これにはガックリ。わりと落ち込んでいました。

だって、この番組は藤子先生ありきで始まったようなものだから…

あなたの漫画を読んで、マグリットに出会ったのだから…

超個人的なぼくの思いでしかないのだけれども。でも、番組で先生の漫画は紹介されるのに(ぼくが必ずするから)、そこに先生ご自身が登場しないのは寂しい。寂しすぎる。

そこで作戦を考えました。

先生はスケジュールがNGだったのです。だったら、先生からOKを頂けそうなギリギリ後ろの日程を出せばいい。つまり、放送日の近くまでこちらは大丈夫なのでどこかでお時間をいただけませんか?と再度お尋ねする。そして、藤子先生のインタビューが入る想定で大まかな尺を空けてそれ以外の部分は全部作っておき、MAも一度終えて、先生のパートだけ放送直前に挿入する方法なら、あらゆる点で問題ないはず。

これをプロデューサーに説明し、「特別だぞ」と了解をもらい、藤子先生に宛てて改めてぼくの想いを丁寧に伝える手紙を書き、投函いたしました。
 
さて、どうなるか。

「素敵なお手紙ありがとう」

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新宿の藤子スタジオで、夢のような時間を過ごしました。

趣旨を説明するのに数分、インタビュー取材に20数分。先生が最後に「漫画にする時に参考にさせてもらいたんで」と我々クルーや撮影機材の写真を撮ったりして、幸せの絶頂みたいな取材を終えました。後日、そのお写真もご郵送いただき、宝物になったのは言うまでもありません。

自分史上、最高傑作誕生!

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紆余曲折ありながらも無事イスラエルロケを終え、憧れの藤子不二雄Ⓐ先生にもご出演いただき、番組は最高の出来と自負できるものになりました。

実はマグリットの故郷ベルギーでの取材も想像以上に面白い映像やインタビューが撮れていたのです。

日本でリサーチした時にはどこにも書いていなかった「マグリット幼少期の採石場でのエピソード」を現地で拾うことができたので、これを急遽構成に組み込み、パリの役者さんをベルギーまで連れて行って撮影。

役者はなんと、マルセル・マルソーのお弟子さんで舞台俳優のピエール=イブ・マシップ氏。パントマイムや所作の美しさが素晴らしいんです。彼に番組のストーリーテラー「山高帽の男」として出演して頂き、マグリットの不思議な世界観を演出しました。

これはマグリットが絵に込めた想いを辿るドキュメンタリー番組であり、その制作過程もまた、ぼく自身のドキュメンタリーと言えました。

いろいろな偶然が重なって紡がれた自信作。

あとはオンエアを待つばかり。
 
もう自分のテレビマン人生はここで終わっていいとすら思っていました。

しかし…

東日本大地震

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いっそ半年後の放送でもいいと思いました。

ですが、当初の予定どおり、3月20日の放送が決定します。
 
震災から既に1週間が過ぎていたので、通常のテレビ番組ではL字の情報は殆ど無くなっていました。私の番組の前枠も、L字無しの通常放送でした。

しかし、局プロデューサーの判断で、私の演出番組にはL字を入れることになりました。

番組の後半で「マグリットは核の恐怖から石を描いた」という文脈があり、ちょうど福島の原発が世の中の最大の関心事になっていた頃だったので、それへの配慮のL字放送というわけです。前枠の番組も、後枠の番組も「L字無し」なのに、私の番組だけL字で放送されることに。

大きなテロップをたくさん出しまくる情報番組ならいざ知らず、逆に、画面にはできるだけ文字情報を入れず映像の美しさで勝負する美術番組にとって、L字放送ほど邪魔なものはありません。緊急ニュース速報ですら嫌なのに。分かっていたことですが、L字で大変残念な放送になりました。

週明け月曜に、番組の視聴率が出ます。

記録的な最低視聴率でした。ワーストワン記録です。民放地上波のプライムタイムでありえない1%台でした。当然の結果とは言え、かなり落ち込みました。

「L字が邪魔だな」というネットの書き込みを見つけ、ちょっとだけ溜飲を下げたのを覚えています。

これが自分の最高傑作だ!と思ったものが、こんなふうに世に出てしまうなんて。もうこれでテレビマン人生終わってもいいと本気で思っていたのに。その1週間後、一応、L字のない形でBSの深夜に再放送されました。反響は殆どありませんでした。

ぼくはそれからすぐ、震災報道班に異動となり、被災地気仙沼で1ヶ月間被災者を密着取材する因果な仕事に従事。1ヶ月間もカメラを回したのに他の要素が膨らんだからという理由でオンエア尺を4分にさせられ、別の意味でテレビマンを辞めたくなりました。(この件もまた、翌年に意外な形で報われる事になるのですが…)

自分の最高傑作がなんだ。

被災地の方々は、人生そのものを奪われたのです。家族を亡くした人だって大勢いる。
 
自分が我欲全開で作ったものなんて、こういう運命を辿って当然だよね。
 
でも、だけど、、。

ウジウジしつつも、どうしようもない。

テレビの仕事を辞めるきっかけも失ってしまった。惰性で仕事を続けながら、しばらくは成仏できずにいる地縛霊のような日々を送っていました。
 
そんな2011年、12月のこと。

意外な雑誌の特集記事

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たまたまコンビニで手に取った雑誌に目を奪われました。

『週刊朝日』2011年12月2日号。特別企画「大アンケートで分かった 頭のいい人たちが見ているテレビ番組」。この見開きの段階で、小見出しに「オオッ」と引き寄せられました。一体何が書いてあるんだろう?
 
そこでぼくは仰天することになります。

脳科学者の東京大学の池谷裕二先生が、番組を毎週見てくれているそうなんです。ありがたや。

そして、驚愕の一文がそこに書いてあったのです。

「あまりに感銘を受けエルサレムへ」

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ルネ・マグリットの『ピレネーの城』が紹介された回は、あまりに感銘を受けたので、エルサレムのイスラエル美術館まで観に行ってしまいました。

いけがや先生!!!!

本当ですか????

いけがや先生!!!!

この記事を読んだセブンイレブンでぼくは天を仰ぎしまた。マジか。ありがとうございます。人知れず泣き、レジに向かいました。

もうテレビマンをやめてもいいと思えるほどのものが出来たと自惚れ、しかしL字で放送されて最低視聴率を叩き出し、誰にも届かず消えていったはずの放送回。

死ぬほどモチベーションを下げて腐っていた所に、この記事です。

これほど報われることはありませんでした。

池谷先生ほどの人に刺さるとは。僕、糸井重里さんとの共著『海馬 脳は疲れない』持っておりましたし。

番組をきっかけに、わざわざ1枚の絵を見るためにイスラエルまで行ったなんて。

心臓がぐらぐらと揺れるのが分かりました。

そして、これってどういう事なんだろう?と考えるきっかけとなりました。

教訓「情熱をもって全力でつくる」

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だから、出発点としては我欲でいいのかもしれない。いや、我欲でいい。自分の内側から湧き上がる欲望を、情熱を、たぎるだけたぎらせて全身全霊で作ればいい。

表現に挑む。被写体と向き合い、闘う。

視聴率も大事。当然狙いに行きます。行かなければなりません。だけど、視聴率は低くても見てくれている人はいる。真剣に作ったものは、必ずどこかの誰かに深く刺さる!

番組を見ながらや反射的に書き込むTwitter感想なんかとは全然違う。

本物の反響は、かなり時間を置いてじわじわと返ってくる。「数字は惜しかったけど内容は抜群だったから次もよろしく」の世界に我々は生きている。全力で向き合えばいい。そうすれば、それがゆっくり自分に返ってくるみたいだ。どうやら・・・

ウジウジしながら過ごす日々にも、いずれそれなりのオチがつく。そう、30歳の自分は思い知らされたのでした。

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