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苦境に立たされて、理想の未来を選び取れるのか。(映画「わたしは光をにぎっている」を観て)

急激な円安、資源高の影響によって中小企業が苦境に立たされている。

今朝の朝日新聞朝刊で、銭湯が次々に閉店しているという記事が一面に掲載されていた。

今年4月に廃業した、東京都中野区の銭湯「千代の湯」。コロナ禍に入り、利用者は1日50人ほどに減ったという(ピーク時の1/3)。燃料高騰や機器の故障にも見舞われ、もはや「ガス代を払うために商売しているようなもの」だったそうだ。

銭湯は、自治体によって価格が決められている。値上げできない苦しさもあり、都内では毎月平均1〜2軒ペースで廃業しているらしい。

僕は、ときどき近くの銭湯を利用している。だが確かに、周りでも数軒の銭湯が営業を止めてしまっていた。自宅の風呂などで代用できる存在ではないわけで、どうにか経営が回復してほしいと願うばかりだ。

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暗澹たる気持ちで記事を読んでいて、ふと思い出したのが映画「わたしは光をにぎっている」だ。

ふるさとを離れ、ひとりで上京してきた澪(演・松本穂香さん)が主人公。

コンプレックスを抱えながらも、叔父(演・光石研さん)が経営している銭湯でのアルバイトを通じて、少しずつ友達や居場所ができていく。ささやかながら「自立」に向けて確かな手応えを得つつある中で、叔父が銭湯廃業を告げる。再開発の憂き目に遭い、立ち退きしなければならなくなったからだ。

本作はフィクションだが、青山真也さんが監督を務めたドキュメンタリー映画「東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート」は史実として刻まれている。

当たり前のようにそこにあった生活が、あっさりと奪われてしまうことの意味。

再開発という理由で、自分たちが大切に守ってきた職場や住居、古くからの思い出が取り上げられてしまう。

映画に出てきたのは、「素朴だけど良いやつ」たちばかり。彼らが、自分たちの居場所を取り上げられてしまう。そうして初めて希望という名の手応えを得られた者もいれば、葛藤のまま無為に時間を過ごす者もいる。

彼らにとって、理想の未来とはなんだろう。

しばし考えてみたけれど、全く思い浮かばない。「理想」という言葉は実は不公平なもので、万人が選べるような代物ではないのではないか。そんなふうに感じてしまった。

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監督を務めた中川龍太郎さんは、どこにでもある水、光、町並みなどを視覚的に美しく撮ることができる。映画を観る上で大切な余白であり、「映画を解釈する」ことの意義を伝えるものだ。

本作では、希望も絶望も留保するようなエンディングにしている。それはそれで監督の判断なのだろうが、苦境に立たされた人たちの悲痛にしては、やや誠実さに欠けるような印象も受ける。

未だに「ガス代を払うために商売しているようなもの」という気持ちで、日々闘っている人たちがいるはずだ。

そういったリアルを汲み取れるか。今後の中川監督のキャリアにも注目していきたいと思う。

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(Netflixで観ました)

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