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『推し、燃ゆ』の主題は「推し」ではない。

「推し」という言葉が、一般的に使われるようになって久しい。

ある調査によると、「推し活」に使われる金額は月平均16,605円だという。スタグフレーション(景気が停滞しているにもかかわらず、物価が上昇し続ける現象のこと)が続いている中で、光明ともいえる消費行動は経済界でも注目され、「『推す』ことは良いことだ」というムードが醸成されているように感じている。

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3年前に発売された宇佐見りんさんの小説『推し、燃ゆ』。第164回芥川賞を受賞し、今にいたるまで累計60万部を超えるベストセラーになっている。

作家がフィクションを書き上げる際、「推し」を手放しで賛美していたら小説にはならない。だから「推し」を巡るあれこれに関して、疑いのまなざしを寄せているだろうことは容易に予測できた。だが、『推し、燃ゆ』の批評性の高さは、それだけに留まらない。いわゆる新自由主義が跋扈する社会に切り込みつつ、「なぜ『推し』が社会から要請されているのか」を見事に論評したフィクションになっている。

では、『推し、燃ゆ』のどんな点が新自由主義的なのか。

それは、登場人物が誰ひとり「優しくない」点にある。

母は仕事と育児に翻弄され、娘の話に真摯に耳を傾けようとしない。姉は努力の押し付けをする。主人公のあかりをアルバイト雇用している居酒屋は、年がら年中スタッフの数が明らかに足りない。居酒屋の客は、金銭を支払う対価としてサービスをさも当然のように受け取ろうとする。あかりに対して、暴力的な言葉を浴びせるようなキャラクターはいない。しかし、いずれもあかりに対して、諦めたような、小馬鹿にするような態度を示し続けているのだ。

そんな状況下で、あかりは「推し活」にのめり込んでいく。彼女にとって、唯一没頭できるもの。勉強も苦手、アルバイト業務の覚えも悪い。しかし「推し」に寄せる思いは本物で、彼への解釈は深く、愛情に満ち溢れている。それは周囲に優しい人がいないゆえに、「推し」に対して幻想を抱いているように僕は感じてしまった。

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「病めるときも健やかなるときも推しを推す」

そう宣言していたあかりにとって、推しが不在になることは、存在証明の喪失と同義だった。『推し、燃ゆ』では、そのときのあかりの感情がこんなふうに綴られている。

あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。
もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

(宇佐見りん(2023)『推し、燃ゆ』河出文庫、P144より引用)

推しは人になった。

「いや、違うよ」と、思わず僕はあかりに言いたくなった。

推しは、もともと人間だ。そんなこと言うまでもない。しかしあかりは、推しは人間でないと思っていた。お金と時間さえ惜しまなければ、推しにアクセスできる。そもそもアクセスしなければならないほど、人間というものは希少性の高いリソースではないはずなのに

しかし、あかりにとって、推しは希少性の高い存在だった。どこにでもいる人間とは異なる存在だったのだ。

しかし、そのようにあかりを思わせたのは、あかりを取り巻く人々の無関心ではなかったか。もっというと、あかりに無関心だった人々をつくりあげたのは、「やればできる、できないやつは悪い」と見做す自己責任史観の社会ではないだろうか。

推しだって、決して優しくはない。むしろ作中における、あかりの推しは「女性に暴力を振るう」青年だった。(あかりは事情があると考え、推しをどこまでも擁護していた)

『推し、燃ゆ』を、「推し」が手段の小説だと読んでいると、本質を見失うだろう。あかりの母や姉は、どうして、あかりに無関心でいられるのか。そんな背景を丁寧に読み解くことで、また別の物語が立ち上がるような気がするのである。

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「推し」というものに対して理解は深まったが、様々なテーマや社会問題を内含するものとして、相対的には理解度が低くなってしまったような感覚がある。

「推し」とは何だろうか。引き続き考えていきたい。

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