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東日本大震災から12年(大木毅『独ソ戦』を読んで)

ここ数年、3月11日には東日本大震災に触れるnoteを書くことが多い。

もう12年前のことになるのかと、ある意味で愕然としてしまう。12年経った今でも、議論が紛糾しているイシューがあり、元はと言えば、経済効果というマジョリティのメリットを日本全体が過信した結果でもあって。

それを政治家のせいにするのは安易だ。口に出したか出してないかはさておき、国や経済界が描いたグランドデザインに乗っかっていた(いる)のは事実で。(それはもちろん、僕も含めて)

その代償が多くの人命を失わせ、今なお生活に苦しむ人たちを生んでいるという事実のは、12年経った今だからこそ、何が問題だったのか想像力を働かせなければならないことだと思う。

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偶然か、東日本大震災に触れてnoteを書くときは、そのときに読んでいた本を紹介することが多い。2023年は大木毅『独ソ戦〜絶滅戦争の惨禍〜』を紹介したい。

地震というのは自然災害であり、人間がコントロールできるものではない。一方で戦争とは、明らかに人災だ。ロシアのウクライナ侵攻も、ロシアで政治権力を握る者たちが決断してしまったことから始まったものだ。今なお、一歩間違えれば「核」というボタンが押されてしまうことに、誰もが平和への想いを強くしているところだろう。

ただ、僕が自然災害と戦争のふたつの共通項を見出そうとしているのには、ふたつの理由(観点)がある。

忘れられる(気付かれずに終わってしまう)

ひとつは、自然災害も戦争も、時間が経つにつれて風化してしまうことだ。

ロシアのウクライナ侵攻も、昨年に比べると「慣れ」のようなものが生まれている。エネルギーや原料高の問題もあり、関心が低くなっているとはいえないと思うが、「そろそろ終わらせてくれよ」という感覚に至っている人は少なくないだろう。

東日本大震災も、12年が経過している。今の高校生(16〜18歳)であっても、当時は4〜6歳ということで「あんまり憶えていない」というのが本音だろう。小学生以下にとっては、生まれてもいないわけだ。

これは1995年の阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件にも共通したことで、当時はあれだけ話題になったものの、災害や事件そのものを「知らない」という人が増えていくにつれ、過去のものとして忘れ去られていくように感じてしまう。

メディアの責任なのか、教育の問題なのか、はたまた……というところではあるが、これだけの情報社会の中で、相対的に過去の出来事の情報価値が下がってしまうのは致し方ないわけで。この時代ならではの、風化させないための方法を真剣に考えるべきタイミングではないだろうか。

単純化されてしまう

ロシアのウクライナ侵攻において、「非がある」のはロシアであることに異論はない。

ただ、物事には全て理由や事情があって、ロシア側が抱える論理を無視してしまうと、問題解決の筋を誤ってしまうだろう。ロシアは歴史的に「被害者」としての意識が強い国だ。経済が安定しない状態のときに、フランスのナポレオンや、ドイツのヒトラーによって攻め込まれた歴史を持っている。前者は1812年ロシア戦役(ロシアでは「祖国戦争」と称される)として、後者は独ソ戦(ロシアでは「大祖国戦争」と称される)として、ロシアに甚大な被害を及ぼすことになっている。特に独ソ戦の場合、ロシアがかろうじてドイツ軍を後退させたという結果になり、ロシアでは国のために力を尽くして戦ったという成功体験が深く刻まれているというわけだ。

共産主義という特性もありつつ、イデオロギーを別にして、ロシアの西欧諸国に対する不信感というのは根強い。戦争という非常事態になればなおさらで、言論統制やプロパガンダが発生すると、独ソ戦が持ち上げられて「(東者である自分たちのために)戦わなければならない」という論理が成立してしまう。

繰り返し記すが、客観的にみればロシアに非があることは自明だ。ただ、その辺りの事情・背景をすっ飛ばして、プーチン政権以降のロシアと近隣諸国、あるいは欧米との対立関係についてのみ語ってしまうと、コアとなっている部分を見落としてしまうだろう。また本心の部分で「プーチンが暗殺されないか」といった願望を抱いている人は多かれ少なかれ存在すると思うけれど、万が一、そういった事態になったときに、ロシア国民の心情はいかほどだろうか。

前段が長くなったが、同じようなことが、東日本大震災をめぐる論争でも発生しているような気がしてならない。

立場や思想によってポジショントークのようなものが出来上がり、小さなクラスターが形成されてしまう。人間は「分からない」ことを不安に感じる生き物だから、どうしても「わかりやすい」言説に飛び込んでしまうものだ。

オリパラの開催、汚染水海洋放出、原発政策の意義、帰還困難区域への対応……。

「○○だから○○だ」と断言できる人は格好良く映るかもしれないけれど、原稿用紙1枚程度では、決して語れない問題である。単純化されてしまうことの危うさを、常に留意しなければならない。

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先に紹介した『独ソ戦〜絶滅戦争の惨禍〜』の「終章」から、筆者の言葉を引用して、本noteを締めたい。

正直なところ僕は独ソ戦のことをほとんど知らなかった。それは僕の無知であることの恥ずかしさでもあるのだけど、著者の大木さんは「実証研究を拒んできたもの」があると述べる。

戦後のソ連と衛星国においては、対独戦の実態は隠蔽された。「大祖国戦争」は、不可侵条約を無視したファシストの侵略を、ソ連邦を構成する諸国民が正面から受け止め、撃退し、輝かしい勝利を獲得して、共産主義イデオロギーとその原則によって築かれた体制の優位を示したとする公式史観が流布されたのである。かかる国民の「神話」を維持するため、機密文書の多くは封印されたままとなり、さらに、歴史家までも加わって、公式史観に都合の悪い事実に歪曲と隠蔽がほどこされた。
(中略)
一方、ドイツ側においては、軍事的な意味でも、ナチ犯罪・戦争犯罪という面でも、対ソ戦の責任は、戦後ながらく、死せるヒトラーに押しつけられ、ゆがめられた独ソ戦像が描かれてきた。国防軍の将軍たちは、陸軍総司令部は対ソ戦に消極的だったにもかかわらず、ヒトラーの意志に押し切られたとする伝説を広めたのだ。東部戦線で行われたジェノサイドについても、すべては親衛隊のやったことで、国防軍は関与していないと述べたてた。こうした主張は、前出のパウル・カレルの著作をはじめとする、ノンフィクションと銘打った政治的な書物や雑誌記事によって、西ドイツの社会に浸透していく。

(大木毅(2019)『独ソ戦〜絶滅戦争の惨禍〜』岩波書店、P222〜223より引用)

「国益のため」という言葉で、あまりにスコープが狭くなってはいないだろうか。というか「国益のため」という前提のような言葉が議論されているのは、市井の人々が生活の恩恵(国益)を享受できていないことを示しているのではないだろうか。

自然災害(に紐づく人災)も戦争も、根っこにある不安や不満が高まり、あるべき姿が歪められて発生しているのではないだろうか。

苦しいときだからこそ、実証研究に力を注ぐべきだと僕は思う。過去に起こったことを正しく認識しない限り、未来に生きる人々は、ずっと過去の代償を背負わされてしまうと思うから。

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過去に書いたnoteはこちらです。

・2022年

・2021年

・2019年

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