東日本大震災から10年(片瀬京子とラジオ福島『ラジオ福島の300日』を読んで)

今から10年前、東日本大震災が起こった。

その日のことは、忘れようと思っても忘れられない。

東京・浅草での商談の帰り、都営地下鉄浅草線に僕は乗っていた。緊急停止でどすんと振動があった後、ぐらぐらと車内が揺れた。長い時間揺れた後、「東北地方を中心に震度7の地震があった」という車内放送が流れ、乗り合わせた乗客のざわっとした空気が漂った。

地下鉄では圏外で、それ以外の情報は全く分からなかった。電車は30分後に動き、停車した最初の駅で「降りてください」と告げられた。

電車から降りたら、世界が変わっていた。

途轍もなく大きな地震で、尋常でない被害が出ているらしい。

会社にメールしたら、隣の部署の同僚から「(会社に寄らず)家に帰りなさい」と返信があった。家に帰れと言われても、その時点で東京にいるわけで、自宅のある横浜まで帰る手段などあるわけがなかった。(運休していた電車も、しばらくすれば復旧するものだと思っていたのだけれど)

帰宅途中にちょうど会社があったので、立ち寄ることにした。何名かの社員が道路の反対側をとぼとぼと歩いていた。声を掛けることはできなかった。同僚なのに、同僚という感じがしなかった。商談用の荷物を置いた後、そのまますぐ会社を離れた。誰かと会話をしたかったけれど、会話をする気持ちにはなれなかった。

電車はやはり動いていなかったので、歩いて帰るしかなかった。このときほど、ラフな服装が許される会社で良かったと思ったことはない。というのも道すがら、足を痛めてうずくまっていた人たちを何人も見たからだ。「大丈夫ですか?」と声をかける状況でもないし、そんな筋合いもない。東日本大震災は無力さを何度も実感したけれど、最初に無力さを感じたのは、近くで困っていた彼らを助けることができなかったことだった。

メールは比較的通じやすかったものの、電話は壊滅的だった。それでも何とか23時頃までに、ひととおり家族や親戚の安否が確認できた。

並行して眺めていたTwitterは「助けてください」のリツイートが飛び交っていた。「助けられる」能力のある人だけにメッセージを届ける手段はなくて、「助けてください」を全方位に飛ばした結果のタイムラインだった。(良し悪しでなく、そんなタイムラインを眺めながら情報の取捨選択をした8時間には、インターネットの混沌が象徴づけられていた)

そうこうしているうちに、自宅のある横浜に辿り着く。

一杯くらいビールが飲みたくて、馴染みのお店を訪ねようと思ったら、店外まで常連客の声が聴こえていた。その途端、急速に気持ちが冷めてしまって、そのままコンビニでビールを買って家に帰った。

シャワーを浴びてビールを飲んでも、気持ちは収まらなかった。

そのときようやく、翌日は仕事でイベントが開催されるため休日出勤する必要があることを思い出した。眠れないかな?と思ったけれど、計30kmも歩いたおかげであっという間に眠ることができた。(結局開催可否は誰からの連絡もなく、集合時間の5分前くらいにイベント中止のメールが届いた。僕は誰もいない空っぽのオフィスの前で立ち尽くすことになる)

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当日のことはよく憶えているのだけど、それ以降の日々のことはあまり憶えていない。

交通網が混乱していたため、翌週の5日間は出社ができなかった。仕事が山積していたので私用のノートPCから作業しようとしたがすぐに上司から止められた。今では仕方ないことだと理解できるけれど、当時は「何もできない」ことに対して強い憤りがあったように思う。

そして、何もかもが「自粛」となった。

だったら被災地に行った方が……と思わないこともなかったが、自分自身も混乱していたし先々の見通しが全く立たなかったため(これは言い訳ですね)、とにかく現状維持に務める他なかった。

4年間社会人としてスキルや経験を蓄えていたはずだったのに、困っている人たちが大勢いる中で何の支えにもなれないという事実。テキストに書いている今でさえ、そのときの苦しさがクッキリと心に残っている。

僕はその1年後に転職をした。東日本大震災がきっかけになったわけではないと思うが、その辺の心境の変化はあまり自覚していない。

ただ、少なくない知り合いが「東日本大震災をきっかけとして」と明確に語り、新しい挑戦に移った。

誰にとっても大きな出来事で、なのに、ひとつも整理できていない気がするのは僕だけだろうか。この生々しい自然の猛威を、どこまでも無常の思いで眺めることしかできず思考停止してしまうのだ。

※アーカイブ動画は刺激が強いため、視聴にはご注意ください※

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東日本大震災から10年という節目に、もう一度震災に向き合おうと思い『ラジオ福島の300日』という本を読んだ。

福島県全域の地元ラジオで、彼らがどんな風に東日本大震災に向き合ったのかが丁寧に描かれている。

もともとラジオ福島は、報道に強くない。一万三七八二平方キロメートルと、四十七都道府県のうち、北海道と岩手県に次いで三番目に広い福島県を、たった五十五人の社員と二台の中継車でカバーしてきた。その後五十五人の中に、取材だけを専門に行う人間はいない。所属する県政記者クラブなどに常駐する者もいない。したがって普段から、他社と比べると、情報の入手速度は遅い。その傾向は、この一、二年で顕著になっていて、共同通信と、大株主である福島民放と毎日新聞頼みのニュース報道が続いていた。
(片瀬京子とラジオ福島『ラジオ福島の300日』P28〜29より引用、太字は私)
(津波誤情報と原発事故情報が同時に発生したとき)どこにいる人は津波から逃げればよく、どこにいる人は屋内に待機すればいいのか、判断できないまま、放送を続けなくてはならない。
(片瀬京子とラジオ福島『ラジオ福島の300日』P75より引用)
緊急放送を、いつになったら通常放送に戻せるかも考えなくてはならない。
ここで言う通常放送とは、すべての番組を震災前と同じように戻すことではなく、まず、CMを復帰させることを意味する。
民間の放送局にとって、CMをカットするということは、収入を自ら断つことに他ならない。減収という結果を招く事は明らかだ。
経営が楽なラジオ局はない。民放ラジオ局の最大の収入源は広告収入だ。主催イベントなどでも利益を上げられるが、規模が大きく手間がかかるわりには、実入りは良くない。安定収入をもたらすのは、広告だ。
(中略)広告主はラジオからインターネットへと流れた。だからラジオ局は財政が厳しくなって制作費も削減せざるを得なくなり、聴取者を引きつけるような番組作りが難しくなってくる。それがさらに聴取者の減少に拍車をかける、などなど。
かつては優良企業だったラジオ福島も、今となっては例外ではない。同じような、あるいはそれ以上の悩みを抱えている。
(片瀬京子とラジオ福島『ラジオ福島の300日』P94〜95より引用、太字は私)

限られたリソースで、ものすごくたくさんの制約条件がある中で、地域のメディアとしての役割を果たしたラジオ福島の震災後のアクション。

フィクションでないドキュメンタリーとして、奮闘の経緯が書籍に残されている。

2011年はスマホが普及し始めて、Twitterがキャズムを超えるタイミングだ。震災の3ヶ月後にLINEがローンチされ、デジタル・コミュニケーションは飛躍的な進歩を遂げた年となった。

ラジオ福島でもGmailアカウントを取得し情報の受け口を作る。Twitterで情報を収集しながら、Ustreamと連携して全国で放送が聴けるようにした。震災情報で疲弊した人々の心を癒そうと福山雅治さんのラジオを流す。

ラジオ福島はあくまで民間企業だが、メディアという特性上、Publicな役割が求められるし、ラジオ福島に関わるスタッフ全員がそれを理解しているところがすごかった。福島県内のリスナーに「届ける」ことに使命感を持っていた。(もちろん描かれていない葛藤もあったと思うけれど)

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震災を総括したり、気持ちを整理するのは、いずれにせよ、もっと後の話になるだろう。

それでも震災の記憶を、ちゃんと心に残しておくことは意義のあることだ。

できることは僅かかもしれないけれど、たぶん未来に向けて、震災の教訓を生かしていくことが求められているはずだ。それが震災で被災した人々や土地との「つながり」にもなるはずだから。

今日も、無事に生きられて良かった。明日からも頑張ろう。

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