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存在の中心にあるもの

束の間の夏休みに、村上春樹さんの『騎士団長殺し』を再読している。

刊行されたのは2017年2月。発売日当日の0時に、代官山蔦屋書店で購入。2日ほどで上下巻を読み終えたと記憶している。

私は熱心な村上春樹さんの読者だと自認しているが、正直なところ、『騎士団長殺し』にはピンと来なかった。ストーリーやメタファーが難解であり、登場人物の人となりが最後まで掴みきれない。でも村上作品って、むしろそういうのが“普通”なわけで、通常であれば喜んで再読するのだが、『騎士団長殺し』はどうしても触手が伸びなかった。実際、これまで2回しか通読できていない。

だが、久しぶりに『騎士団長殺し』を手に取ってみると、不思議なほど現在の私のモードにしっくり馴染んだ。刊行当時、私は会社員として働いていたが、今はライティングの仕事を中心に会社を経営している。肖像画家である主人公「私」も、特定の組織に所属することなく、自らの技術一本で生計を立てており、その生き方やスタイルに共感できる点が多いからかもしれない。

小説では、主人公が、免色渉という“隣人”に肖像画制作を依頼される。だが、どこか本質を掴めない免色に対して、「私」はこのように嘆息する。

彼は私にいったい何を求めているのだろう?
そしてなぜ私には彼をまともにデッサンすることができないのだろう?
その理由は簡単だ。私には彼の存在の中心にあるものがまだ把握できていないからだ。

(村上春樹(2017)『騎士団長殺し』新潮社、P164より引用)

普通のクライアントであれば、1時間ほど面会の機会を得れば、「私」はすらすらと肖像画を描くことができた。しかし免色の肖像画を描くことはなかなか難しい(というか、できなくて途方に暮れている)。

その後も色々な経緯があって、紆余曲折しながら肖像画を完成させていくわけだが、私はそんな「私」の姿をみて、自分の仕事と重ねながら読んでいたのである。「私」は40歳を間近にして、自分の生き方が“まとも”なのかどうか逡巡している。これもまた、私が多少なりとも感じていることである。

2017年、つまり私が32歳のときは、そういった境地に達することができなかった。ちょうど転職を検討していたタイミングだったが、とにもかくにも与えられた場所で、与えられた職責をいかに誠実に果たすかのみを考えていたように思う。そこから極端に視座が高くなったわけではないが、ようやく『騎士団長殺し』に向き合う準備ができたような気がする。

もちろん、それは喜ばしいことだ。

ページを繰る楽しみの感覚を、久しぶりに味わっている。小説を読み終えたとき、どのようなことを感じるだろうか。それもまたワクワクである。

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