見出し画像

「悪口を言う人は可哀想」を考えた

弟が小学校低学年の折
「女子に悪口を言われた」泣きながら帰ってきたそうで、わたしが帰宅したときも泣き続けていた

菩薩みたいな母は弟を抱きしめ…などない
たまに言葉をかけて放置していたと記憶している
母の言葉の中に
「悪口を言う人は可哀想な人」

わたしは子ども心に「可哀想な人」
何がどう可哀想なのか分からずに
「悪口を言う人は可哀想」だけが残った


時を経て、社会人になってのこと

うちの部署の先輩は、仕事中
ふっと部屋から居なくなる
居なくなると1時間以上は帰ってこない
身勝手な不在を他の人が注意すると
不機嫌になり、人や物に当たり散らかす

先輩はよその部署で悪口大会をしていた
わたしを始めとする人々の悪口を言いふらす
そして、その部署から内線がかかり
「邪魔だから引き取りに来てくれ」

理由をこじつけて、先輩の携帯を鳴らす
こんなことが起こっていた

昔聞いた、母の
「悪口を言う人は可哀想」
可哀想の意味が分かりかけた

悪口を言うのは、その時々の愚痴に似た不満以外
心が貧しいや汚いもある

悪口とはストレス発散なのか、何なのか
悪口自体に価値がないのは明瞭で
それは、客観的視点だと
他人の価値の高低や有無を判断する基準じゃない

価値がないものに対して悪口を言う時間を費やす
悪口を言う人だけの価値
第三者から見て価値がないものへ注力する
悪口を言う人の価値こそ無い気がしてならない
だから「可哀想な人」

悪口を言う人からすると
悪口を言って他人を貶めるのは価値がある
自分にとって悪口は価値がある
=誰からも見て悪口は価値がある、は同義じゃない

悪口を言う人は悪口に価値があると信じ
すり替えを始める

悪口は対象者の良さが入らない
「あの人は無価値である」のプロパガンダであり
悪口を言う人が他人を無価値だと決定すると
コミュニティにとっての有害物質のように宣伝され悪口を言う人の味方を増やすための道具として利用されている

悪口を言う人が可哀想そうなのはそれだけじゃなく
精神の自立をしてない人同士が結束し
同好会とはまた別の、独特な距離感
多角的な視点や客観視が一切ない不気味さ

互いが正義や正当性と称した暴言(悪口)で
仲間内や自分の脳みそまで支配し
共依存の洗脳集団に見えてくる

わたしは先輩に言いたかった

勝手にわたしへ
期待値を膨らませ、勝手に幻滅して
自分が被害者だと思っているだけで
充分に加害者なんだよ、分かんないよな
悪口を言う人は可哀想だから