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読解力ですって〜どうよ?

noteの話題、何を書こうか

「読解力がない人がいる」
稀に批判を見かける

戴いたコメントが本文とかけ離れ、ズレのとき
書き手は困惑から、不満に変わるのだと想像する

時間を割いて書き上げた創作は
的確に読んで欲しいのは分かるとして

読解力とは字面を読む力で、理解力ではない
理解力とは、文章に編み込んだ本質や本音が解る力
…多分

書き手が求めているのは
読解力なのか、理解力なのか
空気を読むことなのか
全部なのか、考えてみた


それはそれは華々しい立派な経歴と権威のある
国語の教授が
完璧な文法と日本語、理論を用いた
物理の“波動”を説明した文章は「読める」
読解力があると見做していいと思う

しかし、その国語の教授が理解しているかは
別の話になってくる
「こういう分野があるんですね
でも、意味が分かりません」

一般人が新生児の暮らしをエッセイにする
子どもがいない人にも読み解くことはできる
しかし
「赤ちゃんが夜泣きをして、私はつらい」では
理解の幅が狭くなってくるのではないか

情報があっても、本質まで届く感情は共有できない

これらの前提で読解力がないと批判しているのか
わたしは疑問に思う場面がある

わたし達は日頃、誰かしらと雑談する
何気ないメールやSNSのやり取りをする
では、どれくらいの人が
雑談へ、読解力と理解力を活用しているのか

「腹減った」
大方の人が
「何か食べたら?」
精々、ここまでじゃないかと思う

ちゃんとご飯を食べているのか?
ダイエットを始めたの?
過食症?お金がないの?
パートナーや友達じゃない限り
深掘りなんてしながら読まない

noteには、エッセイが多数あり
書き手の心理を深読みしながら読了する人が
そんなに多くいるように感じない

他にもある、フォロワーの記事もあるのに
自分の記事だけ時間をかけながら読んでくれるのか

余程面白ければ、その時、繰り返し読む
そうじゃなければ、字面のみになるのではないか

読み手ができるだけ知識を確実なものとし
推測を排除した上で書かれてある文章を
なるだけ明確にしながら読んだとしても

書き手が不十分な情報と感情の文章を書いていたら
読み取って欲しい願望は叶えられない気がする

ほぼ、連想ゲームの世界で
先に書いてあるコメントと返信を
読解しているんじゃないかと思うことさえある

それは普段、空気を読む生活に慣れて
額面通りに受け取るのは
空気が読めない、理解力がないとされるからだ

我慢にならないトンチンカンなコメント以外
ほんの少し、他人を許容する
「私が書いた文章もまだまだ」と自重する
そうなれば、互いが気持ちよく
noteを利用できるのではないかと考えたりする

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