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スキやコメントでの評価ってさ

今朝は私的な日記、2年目の自分に向けて
noteの“評価”について書き連ねてみる

結論は、評価は気にしなくていい
継続の楽しさを覚える

他人が別人に「ももまろはこういう人」だと
作品をコピペせず、説明できないレベルにいるなら
人物の印象があっても
創作物に印象がない=特徴や売りがない
わたしは、ここからの脱却を目指す

日々、スキやviewを自分への評価として
落ち込まないのが正解だと思う
自分では、自己の作品がどう見られているか
気になって、スキやviewで心が揺れるだろうが

他人の心中なんて見えやしないのに
性善説や希望的観測で成り立つ関係
褒められることや良い感想しか要らないなら
気にする意味って、なに?

他人が正直に感想を伝えている確信があるのか
他人も本音を言って嫌われたくないじゃん
誤字脱字以外は言わないよ

自分が一番大切にしているのは常に、自分自身

他人のために嫌われてまで、相手を良くしようって
親や友達のごく一部だけだよ

他人がわたしに他人の都合が悪い本音を伝えるか
そして、良い本音だと信じられる根拠はなにか

前向きに考えてみる
自分が見ている他人が
「他人の全てである」などと信じられるのか
なぜ、そんなに自分が他人を信じられるのか

ここを根拠に自分の判断が信じられるなら
他人の評価など無関係で行動できる

言い換えれば
わたしは素晴らしい完全な判断力を
持っているってことじゃん?
他人の評価を考える必要はないんだって

深掘りするとキリがないけど
評価は確信があるなら、必要がない

もとより、芸術家はみんなに「いいね!」って
言ってほしくて創作しているのか
精々、ファンの喜ぶ顔が見たいからじゃないかな

明日や次回を待ってくれている人より
あわよくば、肩書きのある人にチャンスを委ねる
それは止めよう

わたしを育ててくれるのは、読んでくれる人

基本は好きなこと、楽しいことを堪能して
他人から「これはももまろだ!」を築いていく
評価を気にし出したら
自分が良いと思う、こだわりを信じる

富士山は自分が見られているとは思ってない
スキやコメントが多くても、独善的なもの
他人の顔色を見ている内は、楽しくはならない