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自己表現と責任を力説するぜ

論じているより、書きなさいと指摘されそうだが
わたしはモノを考えるのが好き

「どうしてかな」「なぜかな」
深掘りするのが趣味なのね、前世はモグラかな

今日は1800字も書いたよ
時間があれば、ご覧いただきたい

今、考えているのが
自己表現と言論の自由、そして責任と芸術
文章での創作は『芸術』とわたしは見做している



ところで、創作における責任って何だと思う?

「書き手はどれだけ責任を持って書いているか」
創作の本質を問う要になるじゃん

① パッと浮かぶのが、人様の作品はパクらない
著作権の問題ね
② それから、読んで不愉快になる内容は書かない
特定の人物を攻撃しないなどね
③ 未成年などに悪影響になることは書かない

①と②は線引きがあるとして
③だよ、③
明確な基準って、実生活を生きていたら
曖昧になりませんか

暴力や性に関しては、ニュースを見ていると
個人が想像してしまうでしょう?
しかし、報道しないと抑止力にならない
報道しなくなったら陰謀だの言論統制など
次々と問題点が出てくるじゃん

これが創作になると
客観的な基準がないのよ
SNSは裏アカまで作れるのに
どこまでが許容される表現なの?

それに
読者の解釈によったら同じ作品でも解釈が異なり
意図しない形で傷つけてしまう可能性が出る
表現の自由とのバランスを過度に気にすると
自己規制して表現の自由が制限されてしまうよ

ひと口に責任といって
謝罪すりゃいいとか、書かなきゃいいとか
解釈が分かれない無難な創作しとけば良いとなり
芸術への冒涜にも繋がるからさ

だったら表現の自由を尊重しつつ
差別などしない、道義的社会的な責任を果たして
様々な意見に耳を傾けて内省しろ
読者とコメント欄での対話を通じて
「良い作品を生み出せよ」となるけど

けどよ?

あるプロ作家が書いた恋愛小説が
わたしの周りで流行して
購入しようかと思い、感想を聞いたところ
周りは口を揃えて「主人公は美人」ってだけ

興味が湧いて質問を重ねると
「そこしか克明な描写がなかった」

絵本やパステル画もテーマによっては
心に引っ掻き傷を残す
過去や現在の自分をみて、涙を流す
全体を見るから、当然感動を引き起こす
作家ご自身が責任を分かっているからよ

自分の創作に責任を持つことで
作品には重みが増し
読者への共感や感動を呼び起こす

責任から生まれる葛藤や悩みは、作品に反映され
深みを与え、読者に新たな視点や考え方を提示するきっかけとなるのね

責任ってなんなのか
責任があるからこそ
創作は単なる日和見や無難な挨拶文にはならないという考え方なのかもしれない

前者のプロ作家は、責任が取れないからこそ
主人公の容姿しか丁寧に書けなかったのかな?

もしかすると責任を意識したために
創造性を阻害して自由に発想を広げるのが
困難だったのかもしれない

作品が万人受けするような無難なものになってしまうリスクまで背負っても
人を傷つけなきゃいいと判断したのかもしれない

責任を重視すると
表現の自由が制限される懸念は存在する

たとえば、反戦や政治的なテーマね
歴史や宗教などへ批判的な作品もかな
表現の自由が指摘される場合があるね

岡本太郎の「ゲルニカ」のような作品は
表現の自由と社会的な責任の狭間で生まれた
傑作だと思う
時代や社会に対する強い意思を込めて
鑑賞する人に深みのある衝撃を与える

表現の自由と責任の対立まで考えたら 
フェイクニュースやヘイトスピーチね
責任を軽く見てるなぁと思っちゃうよ

表現の自由って民主主義社会では権利よ、権利

でも、この権利は絶対的なものじゃない
他人の権利や社会の秩序を害してどうすんのさ

特定の個人や集団に対する差別や偏見を助長して
社会の調和を乱すこともあるの
「口を慎みなさいよ」と思う

けれども過度な規制をすると
思想や意見の多様性の妨げになるから
表現の自由と責任は、一見、対立する概念のようで双方をバランスよく保つのが
健全な社会には大事なのかもね



表現の自由を盾に
無責任な発言や行動を正当化しちゃいかんな

フェイクニュースやヘイトスピーチへ思うこと

② それから、読んで不愉快になる内容は書かない
特定の人物を攻撃しないなどね

個人的には創作と認めてないよ

他人の価値は値踏みして
自分の価値はどんだけだと思ってんだよ
他人から思想が揺らぐようなことを言われると
ブロックして逃げちゃうとか

自分の主張だけ一方的に撒き散らしたい異常者か
痛いところ突かれると逃げちゃう痛い人
完璧な自分以外見せたくないから内面かなり弱い

ブロックするのは勝手だけど
表現の自由は、責任とセットで考えようね

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