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共感の量よりも質による差

山根あきらさんが書いていらしたエッセイが面白く
便乗してみる

山根さんは、エッセイの中で

 「共感できます」と言われるほうが、「共感できません」と言われるよりも、もちろん気分はいいのだけれども、いつもいつも「共感しました」と言われるとだんだん気分が悪くなってくる。

たとえば、不幸話に共感って必要なのかと思う
皆、自分の苦労しか分からない
そして
他人の苦労を聞いて安心し、傷の舐め合いになり
周囲の環境を良くする役に、あまり立たない

中には自分と他人は違うものだと分かってなく
共感してくれても
自分がコレだから他人もコレって思い込んでる人は無闇に自分の意見をねじ込んでくる

結果として、何かしら不正解な
状況を招き入れる気がしてならない

 「共感しました」は口癖になりやすい言葉なのかもしれない。たまには、「いいえ、それは違うと思います。まったく共感できません」と言ってみたい。別に相手に敵意があるわけではないのならば。。。「共感できません」が歩みよりのきっかけになることだってあるかもしれないではないか?

共感してくれる相手が多いと
心理的や功利的な面で恩恵を得られる場面もある
『仲間』であり『敵意はない』とするからだ
そうなると
共感とイエスマンの境目はなんだ?

共感の量よりも、質による差が大きいように思う

共感できなくて、たとえ納得できなくてもいい
サラッと話して「辛抱したね」と
軽く気遣いされるくらいで構わない
共感の質とは、信頼関係なんだと思う

互いに違う傷を持つけど
相手が少し吐き出した程度で想像がつく
友達は一人で頑張っているんだなと思うからこそ
友達を大切にしたい

山根さんの記事から、外れてしまうが

共感する・しない、同情もそうかな
相手の話を聞いて、自分の感情に当たると
何も言えなくなってしまう

それは、相手と自分の身の上が重なったとき

喜怒哀楽にならないし、何が近いかな
天候が変化し、春夏秋冬を迎えるような
「そうだね…」風に揺れる無力なススキの穂

自分の痛みを整理できてないから
相手へかける言葉を見失う
相手を通して自分を見てしまうから
共感する・しないを通過する

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★彡山根あきらさん★彡
作品をお借りし、ありがとうございます
勝手にわたしがインスパイアしました
『共感ゲーム』本当にそうだなって
毎度、ありがとうございます