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失態
私は同じ失態で、二度友人と関係が疎遠になったことがある。
一度目は、高校生のとき。二度目は、大学の学部生のとき。
二度あることは三度ある、というから、いずれまた同様の過ちをおかすかもしれない。
*
二度の失態で、私は友人から同じ言葉をぶつけられた。
「そんなに簡単に分かってもらっては困る」だ。
これだけ示しても何のことか分からないので、補足する。
友人から相談事があるということで、飯に誘われた。フライドポテトか何かを摘みながら、友人の悩みを聞いていたところ、自分にも思い当たるところがあったので、「その悩み、よく分かる」と口にした。
そこで返されたのが、最初に紹介した言葉である。
……どうだろうか。大体の流れは摑んでもらえただろうか。
当時の私、特に一度目の私は、この友人の言動に困惑し、憤りさえ覚えた。それもそのはずで、私は「相談事がある」とものを頼まれた側である。それに応えたら、「そんなに簡単に分かってもらっては困る」と言われてしまったのだから、理不尽だ。
*
ここまで、憤った、理不尽だ、と色々書いてきたが、それでも「失態」であるという総括に変更はない。
その理由を述べるにあたって、まずは一つ文章を引いてみたいと思う。
「芸術家は己れの世界を他におしつけ、征服しようという強烈なダイナミズム、権力の意志がある。それは芸術家のロマンティスムだ。
しかし、この帝国主義にも大きな矛盾がひそんでいる。実は、それと同時に己れを絶対に他に理解させたくないという意志がはたらくからだ。
もし己れが理解されたとしたら、これはもうすでに己れではない。自分は解消して、他者になってしまうのだ。いかに、その意味で自己を放棄して他者になってしまった人間の多いことだろう。」
(岡本太郎『原色の呪文 現代の芸術精神』講談社文芸文庫、P15)
ここで岡本太郎は、芸術家が有する相反する本性について語っているが、これは人間全般にも言えることではないだろうか。
人は自分のことを他者に分かってもらいたいと思っている。ただ、"簡単に"分かってもらいたいとは思っていない。
"簡単に"分かられるということは、それだけ内容が単純であるということ。より正確に言えば、単純であると他者に見做された、ということになる。この状況を、快く受け入れられる人がどれだけいるだろう。
悩みを抱えていた友人の場合は、状況がより複雑になる。当人でさえ判然としないものが、内側で疼いている状態。
そんな中、「その悩み、よく分かる」という言葉を向けられれば、そんなに単純ではない! という抗議から、「そんなに簡単に分かってもらっては困る」と言ってしまう気持ちは理解できる。
今度こういう場面に出くわしたら、せめて「同じ悩みかどうかは分からないのだけど」と前置きして、類似の悩みを話してみたいとは思っている。もちろん、これで三度目の失態が防げるかどうかは分からないが。
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