見出し画像

たかが受験、されど受験

1月も中旬を過ぎたあたりから、受験シーズンが本格化する。
私もかつては受験生だったわけだが、今では遠くなりにけり。それでも当時のことを思い出すと、いまでも胃がキリキリしてくる。
「ここで失敗したら、人生がおわる」ーーあの異様な切迫感は何だったのだろう。

日本の作家の中にも、自身の受験経験を文章にして残している者がいる。列記しだせばキリがないが、あえて一人選ぶなら、私は安岡章太郎の名前をあげたい。
安岡章太郎といえば、1953年に「陰気な愉しみ」「悪い仲間」で芥川賞を受賞した人物で、戦後の文壇での期待から「第三の新人」と目された。2013年に没するまで、野間文芸賞や川端康成文学賞を受賞するなど、戦後を代表する作家の一人だといえる。

以上の紹介文だけを見ると、典型的な知的文豪を思わせるが、実際の安岡章太郎は、受験時代を手始めに、苦労の連続の人生だった。

安岡は、慶應義塾大学に入学するまでに、3年間の浪人生活を経験している。曰く、浪人一年目は「当然するだろう」ぐらいに考えていて、予備校に通いだして半年もすると「浪人も二年ぐらいはしたほうがいいかもしれない」と考えるようになったらしい。ただ、三年目は想定外だったらしく、様々な学校に出願し、結果的に慶應義塾大学に進学することになった。
ここで注目したいのが、なぜ安岡は浪人の一、二年は当然だと考えるに至ったのかということ。それは、彼の周りにいた他の受験生に原因がある。安岡の予備校には、浪人三年四年というベテランが大勢おり、年数を重ねるほど尊敬されるという不思議な現象が生じていた。中には、第三高等学校の出身者で、大学進学のためでなく「第一高等学校」に進学するために浪人する受験生もいたようである。(結果的にこの人物は、一高に合格し、入学したらしい。)(注1)

以上のエピソードは、安岡章太郎のエッセイ集『とちりの虫』(中公文庫)の中で語られているものである。本書には、「受験」そのものに対する安岡の思い・考えも語られているので、次にいくつか紹介したい。

まず、彼も3年間身を置いた「浪人」について。

「浪人したことのある人と、ない人では、顔つきまでちがうように思われる。四十、五十になっても、何年も浪人したことのある人は、どこかに"落第生"の雰囲気をただよわせているのである。どことなく、愚直で、虚無的で、男臭いようなものを幾つになっても発散させている。」(安岡章太郎『とちりの虫』中公文庫、P14)

次に、「大学に進学する理由」の一般論とその問題点について。

「「いったい何のために大学へ行きたいのか?」
 こういった質問を発すると、受験生の九十パーセントまでは、即座に、
 「就職のためだ」
 とこたえるだろう。
 このこたえが、あながち間違っているとは、僕も思わない。けれども実際には、彼等自身よりも、親や世間のオトナたちに教えられてバクゼンと、大学を出なければ就職できないと考えている場合が多いのではないか。そして本当のところは、学問のためよりも、就職のためよりも、ただ何となく、大学へ行かなければハナシにならない、と思っているだけなのではないだろうか。」(安岡章太郎『とちりの虫』中公文庫、P16〜17)

上記二つの引用文から読み取れるのは、ときに「受験」に余計なプレッシャーを与えている親や世間の問題点である。彼らがよかれと思って示した言葉や態度が、ときに受験生の志望さえも歪めてしまう。

「僕の場合も、そうだった。母親がヤミクモに帝国大学にアコがれて、そのためには府立の中学(いまの都立高校)へ行かねばならず、またそのためには合格率のいい小学校を、というわけで、五年生のときに青山の青南小学校というのに転校させられた。
 当時は中学校も学力試験第一で、青南は本郷のS校とならんでもっとも受験準備のさかんな小学校だったが、僕はたちまち七十人の組中、七十番に下ってしまい、おかげで大いに劣等感になやまされた。」(安岡章太郎『とちりの虫』中公文庫、P17)

「受験」は、受験期間だけに限らず、子どもの人生全体にわたる環境を規定する。親に依存せずには生活できない子どもには、ほとんど選択権がない。上記の安岡章太郎の語りから、そのことが分かるだろう。

『とちりの虫』には、安岡が大学へ入学後、同じく三年の浪人を経て慶應義塾生となった遠藤周作との交流も描かれている。
今回のnoteの締めとして、私が最も好きな安岡と遠藤のエピソードを、以下に引用しておきたい。彼らが示すのは、受験を終えた先に待っている「愉快」である。

「私がほんの時たま学校へ行くと、片手に教科書を抱えこんだ遠藤が、半焼けの校舎の廊下を息せき切って走ってくるのに出会ったものだ。そして、こともあろうに私に向って、
「こんどのI先生の授業は何番教室?」
 などと訊ねるのである。これは、まるでアメリカでアメリカ人から道を訊かれるようなものであった。私がデマカセに、
「あ、それは十番教室だよ」
 とこたえると、遠藤は元気よく、
「どうも有難う」
 と、とっとと駆け出して行く。しばらくたつと、遠藤は戻ってきて、
「十番教室には誰もおらんですが、一体どうしたんでしょう」
「あ、そりゃ十番じゃなくて、二十番教室だよ」
「え、二十番教室。どうも有難う」
 と、遠藤はこんどは廊下の反対側へ、またしても懸命に突進して行く。そして、そこにも誰もいないとわかると、戻ってきて、また私に訊くのである。それで、
「いや、二十番じゃない、十二番教室だ……」
 と、またまたデマカセをこたえると、さすがに遠藤は怒り出し、
「あんたは一体、何を言わんと欲しとるんや、さっきは十番、つぎは二十番、こんどは十二番と……。一体、あんたの本心は何処にあるのや」
 と、ムキになって問い詰める。すると私は、いまの世の中にこんなにマジメな学生がいるものだろうか、と不思議な気がして、思わず吹き出してしまうのだ。」(安岡章太郎『とちりの虫』中公文庫、P173〜174)


【補注】
(注1)教育・歴史学者の天野郁夫は、著書『帝国大学』(中公新書)の中で、戦前期の高等学校生を物語るエピソードとして、大正期の岡田良平文相の発言を紹介している。

「全国の秀才が多く集まる一高や三高の落第生の中には、他の地方の高等学校の入学者よりも成績の優秀な者が沢山居る。現に昨年の成績に依ると、一高及び三高の落第生中七百人丈は他の高等学校の入学者のある者より上位の成績を得ている〔注:高校全体の入学者数はこの頃も約二〇〇〇人であった〕。即ち地方の高等学校になら立派に入学し得る学力ある者が、一年間無為に暮して居る。之は当人に気の毒なばかりでなく国家の損である」(天野郁夫『帝国大学』中公新書、P95)


※※サポートのお願い※※
 noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
 ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?