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木陰

 私は、「〇〇の歴史」と題された本が好きである。特に、「〇〇」の中身がニッチなものであればあるほどいい。
 好きな理由は、あらゆるものに、情熱を傾け、探究している人がいる事実に触れられる点が大きい。それだけどんな対象にも、探究したくなるような魅力や歴史性がそなわっているということでもある。

 朝口にしたヨーグルトにも、出先で飲み干した栄養ドリンクにも、就寝前に使用した歯磨き粉にも、それぞれ歴史がある。「〇〇の歴史」本を読むと、自身の生活が、無数の歴史の重なりによって成立していることを再認識できる。

 最近読んだ「〇〇の歴史」本で、衝撃的だったのは、フランスの歴史家、アラン・コルバンが著した『木陰の歴史』(藤原書店)
 最初、書店でタイトルを見かけたとき、目を疑った。「樹木」ならまだ分かるが「木陰」……。もはや事物ではなく現象である。
 本の厚さを確認すると、500頁近くもある。一体、「木陰」をテーマに何を書くというのか。

 実際に読み始めてみると、本書では、文学・信仰・日常生活の中で「樹木」がどのような存在(象徴)として扱われてきたのかが、分析されている。つまり、樹木と人間の関係性の歴史である。
 タイトルにある「木陰」というのは、「木陰」そのものというよりも、樹木と人間の繫がりを表徴する言葉として使われているようだ。

 本書で特に興味深かったのは、いかに人間が様々な感情や理想を、樹木の姿に投影してきたのかを紹介した部分。
 一部、該当箇所を引用してみたい。

「樹木伐採の歴史は、社会が樹木を扱う方法についての歴史に関わっている。それは、共同体ごとの地域性や、その土地ならではの慣習によって変化するものであり、道徳的な規律の象徴に結びつくのだ。例えば近代イギリスでは、イギリス的な自由の象徴として、束縛のない発芽を支えるために、樹木に対する擦傷はすべからく非難すべしとの機運が高まった。」
アラン・コルバン著、小黒昌文訳『木陰の歴史 感情の源泉としての樹木』藤原書店、P233)

 「自由」を理念とする近代イギリスでは、伸び伸びと成長する植物の姿に、「自由」の顕現を見た。
 百年前後で命が尽きてしまう人間よりも、はるかに長い年月を生きる樹木は、何世代にもわたって共同体の理念を継承していくための「象徴」、ときに崇拝の対象として扱われてきたようだ。

 樹木を伐採するのはいとも簡単だが、その樹木が帯びていた歴史の重なりを取り戻すのは難しい。というか、不可能だ。どれほど懸命に新しい芽を育てても、それは伐られた樹木の代替にはならない。これは樹木だけでなく、あらゆる事物に敷衍して言えることでもある。
 この事実に、想像力の及ばない人間は、躊躇わず歴史の重なりを突き崩す行動に出る。世間を見渡すと、その実例が幾らでも見つかることに、溜息が止まない。



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