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校則

 私は生まれてこの方、髪型や服装に強いこだわりをもったことがない。
 とくに10代の頃は、髪は伸びれば切る、服は適度に衣替えする、これで十分だった。
 こんな感じだと、学校の校則に違反することがない。ただぼーっと生きているだけで、学校側からすれば「規則正しい生徒」と見做される。
 一方、私の友人たちの多くは、髪型や服装にこだわりがあった。髪は染めたいし、折り目正しく制服なんて着ていられない。
 こうなると、校則とバッティングする。頭髪検査、服装検査が実施されるたびに、ゴツい体育教師や声のデカい国語教師に詰められる。
 私はその様子をどういう風に見ていたかというと、「髪型なんて個々人の自由だろ」では残念ながらなかった。「従っとけば、楽なのにな……」である。
 私は学校のルールに従順であった。

 校則に対する疑問を持ち始めたのは、大学生になってからである。校則の縛りが弱い、もしくは校則のない学校に通っていた友人たちの話を聞いて、「うわー、自分、あまりに無関心やったな……」と反省した。

「「茶髪」という頭髪問題から訴訟になったケースが2件ある。中学校内で茶髪を黒染になおす指導をうけた生徒が「体罰」であると主張したケースと、大阪府立高校に2015年に入学した生徒が「黒染めを強要された」ことから不登校になり、損害賠償を請求して出訴したというケースである。後者は新聞などでも報道された。報道によると、当該生徒は幼少期から地毛が茶色であったが、学校行事のために黒染めを強要された。」
大津尚志『校則を考える』晃洋書房、P34)

 引いたのは、教育学者・大津尚志の『校則を考える』の一節。頭髪問題からの訴訟例が2件紹介されている。
 この文を読んでまじまじと思い出されたのは、学校空間の特殊性である。学校外であればすぐに法的問題が指摘されそうな場面であっても、学校内では内々に済ませられることが多い。それによって、どれだけの生徒が泣き寝入りし、「不登校」や「自死」を選ばざるをえなくなったか。
 その点で、訴訟を通して、学校の外に「校則」の有り様を問題提起する意義は大きい。訴訟に携わる生徒(とその関係者)の負担を考えれば、社会は問題提起と真摯に向き合うべきだと思う。

 著者の大津尚志も指摘するように、学校側が校則を生徒に強いたい大きな原因の一つとして、教員の労働状況の厳しさがある。できるだけ無駄な指導を減らしたいと考えば、生徒一人ひとりの事情と向き合うよりも、一律に校則で縛った方が効率的ではある。
 「校則」問題は、生徒・教員、両者にとって居心地のいい現場(学校)を考える上で、キーとなるトピックだと言えそうだ。



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